秋はとっくに終わりを告げて、吐く息が白く空に向けて昇っていく、寒い冬が訪れていた。 去年の今頃はレギュラーをキープするのに一苦労で、練習に一生懸命励んでいたから、雪なんて降られても迷惑だなあと思っていたけど、部活をやめてのんびり一般人となった今では、せっかくの冬なんだから積もった雪のひとつも見てみたいと思うのが正直なところだ。 なんて。こんな事まじめに(?)部活に取り組んでいる一、二年に言ったらブーイングだろうな。 終業式を間近に控えた木曜日、特に用事もなかった俺はさっさと家に帰り、制服から私服に着替えると、机に座ってスケジュール帳を開いた。 今日の昼休み、「今年の冬休み最後の部活となる十二月二十八日にOBとの練習試合をしたい」と副部長の海堂がわざわざ三年の教室まで言いに来た。誰かひとりに伝言すればいいのにそうせず、わざわざOBひとりひとりに聞いて回ったそうだ。思った通り、マメなヤツだ。 俺は迷わずOKと即答したのだが、他の皆はどう答えたのかと気になり、放課後確認に行ったところ、手塚、英二、乾、不二、タカさんと、全員が承諾したようで、OB側の誰かひとりが(暗黙の了解で、不二がダブルス2とシングルス2をかけもつと決まっているのだが)かけもち、団体戦形式で行う事にしたらしい。 団体戦と言う響きが懐かしく、レギュラー陣のダブルス1は誰になるのだろうなどと考えて少し気分を昂揚させながら、俺は二十八日の予定をスケジュール帳に書き込んだ。二十八日土曜日、朝九時に青学テニスコート、と。 ……二十八日、土曜日? 俺はカレンダーを指でなぞり、日付を遡る。 二十四日。ご丁寧にもクリスマスイブと書かれたその日は終業式だけで帰れるのだけど、火曜日だ。 「どうするんだろう」 もう二ヶ月近く続いている習慣で、毎週火曜日の放課後は、竜崎さんとの勉強会を行っている。だけどそれはあくまで、通常授業であったから、だろう(テスト中も当然のごとくやったけれど)。 先週あたり英二にかなり強引な形で誘われ、イブの夜は英二の家族とか友達とかと一緒にパーティをする事になったけど、六時に英二の家に行けばいいので、勉強会をする余裕はいくらでもある。 俺の方には。 でも、竜崎さんはどうだろう? 終業式、しかも一年に一度しかないお祭りであるクリスマスイブまでわざわざ勉強したいとは普通思わないだろう。冬休みの宿題はそんなに多くないし、冬休み中にやればすむ事だ。 きっと、誰かと遊ぶ約束をしてるよな。いつも仲良くしている親友の……小坂田さんとか、他にもクラスの子と集まるかもしれないし。気分的にも時間的にも、勉強会なんて余裕はないだろう。 じゃあ、今年彼女に会えるのは、明日の昼休みが最後なのかな。残念だけど。 俺はなんとなく寂しい気持ちになって、明日の日付にマルをつけてみた。 終業式が間近になると授業なんてほとんどなく、宿題も冬休みに向けて先生たちは温存しているらしい。今年最後の金曜日の昼休み、竜崎さんは特に急いで勉強しなければならない事がないらしく、いつもなら宿題のプリントを持ってくるのだけれど、今日はついこの間までやっていた期末テストの数学を持ってきていた。 「せっかく大石先輩にいつも教えてもらっているのに、情けないんですけど……」 平均点が68点のテストで、竜崎さんの取った点数は65点。単純に考えれば、怒るほどの点数じゃないけれど誉める事もできない、微妙な点数だ。 でもまあ、数学が苦手だと言っていた彼女が取った点だと思えば、充分誉めてもいいのかもしれない。 「情けなくなんかないよ。数学苦手だったのに、頑張ったじゃないか」 竜崎さんは照れくさそうに笑いながら、左手の指を長いみつあみにからませる。その様子があんまり微笑ましくて、かわいくて、仮に酷い点数を彼女取っていたとしても、怒るなんてとんでもないなと思ってしまった。 俺は採点されたテストを見ながら彼女の苦手な範囲を定め、今日はそこを集中的に勉強する事にした。いつもみたいに切羽詰っているわけではないのに、だけど彼女はやっぱり一生懸命で――細々と動く彼女の右手を見守っているのだけでも楽しかった。 「あの、大石先輩」 竜崎さんは突然手を動かすのをやめ、俺に話しかけてきた。だけど目はノートに注がれたままで、俺を見ていない。 彼女は何か話す時相手の目を見るタイプなので、そう言う態度は珍しいな。 「ん?」 「次の火曜日って、終業式、ですよね」 その口調から、彼女も昨日俺が考えていた疑問にあたったんだなと気付いた。習慣になるほど続けていた事だから、うやむやなままにしておくより、きっちり決めておいた方がいいと思ったんだろう。万が一にも相手がいつもの場所で待っていたら、申し訳ないしね。 「ああうん、そうだね。終業式の日は午前で図書室閉まってしまうらしいし、クリスマスイブだし、勉強会はできないよね」 「え! や、やっぱり大石先輩、予定入ってるんですか!?」 竜崎さんにしてはものすごい勢いで顔を上げるので、ふたつのおさげがちょっとだけ跳ねる。 ? なんでそんなに驚いているんだろう。 「予定と言うか……夕方から英二たちとパーティやる事になっているんだ。竜崎さんも、小坂田さんとかとやらないの?」 「あ、それは、あります。朋ちゃんちに行って、泊まりこみで遊ぼうって話してて……でも約束の時間は五時なんで、時間の余裕はあるなとか思ってて、だから……」 なにやらすごい気迫でまくしたてる竜崎さんの姿は、見慣れないのでちょっと驚いた。 でも……お互い夕方までは暇だって事、だよな。これって。 都合のいい事ばかり考えるつもりはないけれど、クリスマスイブがせっかく火曜日だったって事に、甘えるくらいは許されるだろうか? 「竜崎さんは、冬休みの宿題、全部ひとりでやる自信ある?」 「な、無いです! まったくありません!」 そんなに自信持って言い切られても、困るんだけども。 英二が同じ事言おうものなら、「甘えるな」って言ってちょっと殴ってやるところだけれど、そんな事をする気にもなれないのが、情けない事に惚れた弱みってやつなんだろう。 「もし良ければだけど、お互い三時くらいまでなら問題なく時間あいているみたいだし、恒例の勉強会、しようか? 図書室は無理だから、自販機コーナーとか……どこかのファーストフードかファミレスで昼ごはん食べながらでもいいけど」 竜崎さんはただでさえ大きな目を、いっそう大きく見開いた。 しばらく答えてくれないから、やっぱり余計な事言ってしまったかなとか、断る口実探しているのかなと不安になり始めた頃、竜崎さんはしつこいくらいに何度も何度も頷いてくれて。 「はい、お願いします」 と満面の笑みを浮かべながら言ったのだ。 そしてクリスマスイブの前日、天皇誕生日。 街に出ると、食材やらプレゼントやらを買う人、つまりはクリスマスの準備をする人たちが溢れている。ごく一部、一足早くクリスマスを祝っている人たちも居たけれど。 俺はせっかくの休日を、ゆっくり体を休めつつ水槽の手入れにでも費やそうと思っていたのだけれど、母親と妹の買い物に付き合わされる事になった。付き合わされると言えば聞こえはいいが、ようは荷物持ちだ。 彼女たちに言わせると、クリスマスイブに家で食事をしない俺は「裏切りもの」なのだそうで、その罰らしい。 確かに去年までは家族で祝っていたからなあ。父はどうだか判らないけれど、ふたりはとても楽しみにしていたようだから、少し申し訳ない……まあ、うちはなぜかイブとクリスマス当日両方ともご馳走がでるから、一日くらいと思ってしまうのもまた事実だけれど。 「秀一郎、次はこの店よ」 母の服と妹のコートが入ったどこぞの店の紙袋を揺らしながら考えこんでいた俺は、突然ふたりに示された、男の俺が入りこむのは拷問としか思えないような雰囲気の雑貨屋にたじろいでしまう。 半ば引きずられるような形で店の中に入ると、やっぱり馴染めない空気に威圧された。俺は今、確実に浮いている。 こまごまと置いてある色んな雑貨ひとつひとつを楽しそうに見ているふたりには悪いけれど、俺はこの店に長居できそうもなかった。ふたりに声をかけて、店の外にあったベンチで待たせてもらおうと思って振りかえると。 目に付いたのは、淡い桜色のマフラー。 店の中を流れていたBGMや、女の子たちの声、店の外から僅かに届く雑音。それら全てが一瞬だけ消え失せて、ふと竜崎さんの笑顔を思い出す。 まいったな、こりゃ。 確かにあの桜色は名前の通り、竜崎さんにとてもよく似合いそうだけれど、それだけで頭の中が竜崎さんだらけになるなんて。どうやら俺は、自分でも気付かないうちに末期に近付いていたようだ。 「そうか、クリスマスだったんだよな」 これを連鎖反応と言っていいのか判らないが、竜崎さんを想う事で明日の勉強会の約束を思い出し、そして明日がクリスマスイブだと言うのに何の準備もしていないと気付く事ができた。 プレゼントくらい、準備するべき、かな。 でも、俺からプレゼントなんかもらって、迷惑じゃないだろうか? 俺は彼女にとってただの先輩なわけだし。 俺が竜崎さんの立場だったらどうだろう……微妙だなあ。 とりあえず、準備だけはしておこうか。 迷惑そうだったら引っ込めて、妹にあげる事にして(かなり情けないけれど)。 そう言えば竜崎さん、普段マフラーしているところを見た事がないし、値段も手ごろだし、これはきっと運命だ。そう言う事にしておこう。 俺は母と妹が店の反対側に居る事を確認し、素早く目当てのものを手に取ると、レジに向かった。 |