優しいキモチ

 校内に並び立つ木々の紅葉がもうすぐ終わりを告げようと言う秋の日の五時間目。私が所属する青春学園一年一組は家庭科の調理実習でマドレーヌを作った。
 これが三、四時間目なんかで、お腹が空いてお昼まだかなーなんて思う時間帯だったら、作ったその場でひとつくらい食べてもよかったんだけど……昼食後すぐのこの時間じゃあ味見ぶんだけでお腹がいっぱいで、とてもじゃないけど食べられなくて。
「どうしようかな……」
 そんなわけで私は、マドレーヌをどうしようか、ちょっぴり悩んでた。
 クラスメイトの男の子たちはそれが当然! と言う顔で食べているから、あの子たちにあげようかなともちょっと考えたけど、せっかく作ったのにそれはなんとなくシャクだなって思っちゃって。
 女の子たちはどうするのかな、なんて見回してみると、かわいい袋に入れてリボンで結ぶと言う簡素なラッピングをして、「好きな男の子にプレゼントしよう」なんて話しながらウキウキしてる。朋ちゃんもきっとそうするんだろうな。
 でも、私にはムリだなぁ。
 ふられちゃった今となっては、リョーマ君に渡す勇気ないし。わざわざ会いに行く勇気も、今はまだないから。
 それに、あんなにきっぱりと拒絶されちゃったから、これ以上つきまとうのは、きっと迷惑。迷惑は、かけたくないもの。
 やだ。なんか、考えるだけで泣きそう。いくらなんでも調理室でいきなり泣くのは恥ずかしいよね。がまんがまん!
 マドレーヌは、しょうがないから家に持ち帰って食べようかな。せっかくおいしくできたからそれは寂しいけど……あ、帰りに職員室に寄っておばあちゃんにあげるのもいいかも。
 うん、そうしよう!
「桜乃、ラッピングする? 袋余ってるよ?」
 隣でマドレーヌのラッピングを終わらせた朋ちゃんは、私の顔を覗き込んでにっこり笑った。透明なビニールの袋にかわいい絵が描いてあるのを顔くらいの高さに掲げながら。
「いいの? もらっちゃって」
「もっちろん。余ってるのピンクしかないけど、それでいい?」
「じゃあせっかくだからもらおっかな」
 私は作ったマドレーヌが冷めているのを確かめて袋に詰めて、やっぱり朋ちゃんから貰ったリボンで口をきゅって閉じた。袋がピンクでリボンが赤だとなんだかすごくかわいくなっちゃうけど、おばあちゃんにあげるんだから問題ないよね。
 おばあちゃん、喜んでくれるかな。いつもおいしいケーキ作ってくれるから、私のマドレーヌはまだまだイマイチだ、とか笑われちゃうかもしれないけど。それとも、いつもよりずっといいできだって、誉めてくれるかな?

 放課後、今日は部活が休みだからちょっとゆっくり朋ちゃんと教室で話をして、それから私は職員室に向かった。
 窓越しに職員室の中を覗いてみて。おばあちゃんがいつも座っている場所はだいたい判るんだけど……今は居ない。今日は部活の方に早めに顔を出したのかな?
「どうしよう。わざわざテニスコートの方にまで行って渡すのもおかしいよね……?」
 おばあちゃんの机の上に置いておけばいいかな、なんて考えて、もう一度職員室の中を見回してみた。
 席についている先生たちは半分くらい。ちらほらと生徒の姿も見える。職員室の中に居る生徒は、よっぽど素行が悪いか、その逆で品行方正、教師の信頼を受けているかどっちかだっておばあちゃん言ってたけど。
「あ」
 学生服を着た人の中に、私は知っている姿を見つけた。
 あの人はきっと、ううん、間違いなく、「教師の信頼を得ている優秀な生徒」の方なんだろうな。おばあちゃんも安心してものを任せられるって言ってたし、学級委員やってるって聞いた事があるもの。
 しわのない制服をぴしっと着て、きれいな姿勢で何か先生とお話していたその人は、話が終わったのか礼をすると、ゆっくりと職員室を出てきた。
「失礼しました」
 ちゃんと頭を下げて、そう挨拶をして、ぴしゃりとドアを閉める。
「大石先輩」
 私はどうしてか、迷う事無くその人に声をかけていた。この間、片付けを手伝ってもらったお礼をもう一度言いたくなった……のかな?
 突然声をかけられた大石先輩はちょっと驚いた様子を見せて、何秒間か黙って私を見下ろす。だから私もどうしたらいいか判らなくなってしまって、ぼーっと立って先輩を見上げていた。
「あ、ごめん、ちょっとびっくりして。どうしたの? 竜崎さん」
 どうしたの、と聞かれてしまうと私は困ってしまって、それで、おばあちゃんにあげようとしたマドレーヌを持っている事をふと思い出した。
「え、いえ、その……お、大石先輩、今、お腹……すいてませんか?」
「はあ? お腹?」
 大石先輩は少し戸惑った。そうだよね、いきなりヘンな事聞くな――って思うよね、普通……。
 だけど大石先輩は少しも嫌な顔をしないで、ちょっと考えこむそぶりを見えて、小さく頷いてくれた。
「言われてみれば小腹がすいてるかなあ、とは思うけど」
 ものすごくあったかい笑顔と一緒に、大石先輩は答えてくれる。
 ああ、優しい人なんだなあーって感じた。男テニの活動をよく見ていたから、前から優しい人だとは思っていたし、優しいって話はよく聞いていたけど、こんななんて事ない会話でも優しさがにじみでる人なんだなあって知ったのははじめて。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「あ、あのっ、今日午後、うちのクラスで調理実習があって……」
「もしかして五時間目?」
「はい……え? なんで知っているんですか?」
「うちのクラスは五時間目が体育でね。いい匂いがするなあって皆で話していたんだ。甘い匂いがしたから、おかしか何か作っていたよね? きっと」
「そ、そうです。マドレーヌをつくったんですけど、その……」
 私は顔を伏せて、マドレーヌを大石先輩に差し出した。と言うか、こう言うのって突き出したって言うのかも。
「え?」
「その、結構おいしくできたんですけど、自分で食べるのもさみしいから、おばあちゃんに食べてもらおうかなって思ったんですけど、おばあちゃんもいないし、それで、もしよければ、もらってくれませんか? この間のお礼に!」
 それだけの事を言うのに、私はものすごく緊張してしまって。言葉はぶつぶつ切れていたけど、息つぎは全然しなかったから、苦しくなってしまった。
「ええと……俺がもらっちゃって、本当にいいのかな? あれは俺が竜崎さんにお礼したんであって、それにお礼されるのはなんかおかしい気がするんだけど」
「もらっていただけると、助かります!」
 くすりと小さく笑い声がして、緊張していた空気がほぐれる。
 ふわっと、私の両手のひらにのっかっていたマドレーヌの重みが消えてなくなった。顔をあげると、大石先輩はマドレーヌを片手にいっそう柔らかい微笑みで私を見下ろしていて。
 なにもかもを包み込むようで、癒されるようで……とにかくあんまり優しい笑顔だから、びっくりした。胸が痛くなるくらいに。
「じゃあ、遠慮なくいただきます。いくつか入っているのかな?」
「はい、ええと、四個です」
「四個か。英二たちはもう帰っているだろうし……竜崎さんは、これから部活?」
「いいえ、今日は休みですけど」
 私はふるふると首を振った。
「じゃあせっかくだから、一緒に食べない? 飲み物は俺が奢るから……って、缶ジュースだけどね。焼き菓子には、やっぱり紅茶かな?」
「ええ!!?」
 びっくりした私は思わず大声を出してしまって、自分の大声に驚いて、慌てて両手で口を抑える。あたりをきょろきょろと見回して、誰にも聞かれていない事は確かめたけど……今の声なら職員室内まで届いちゃってるよね。どーしよう。
「ごめん。いきなり誘われたらさすがに困るよね。せっかく部活ないんだから、友達と遊ぶ予定もあるだろうし」
「いえ、それは、ないんですけど」
 恥ずかしさで赤くなっているだろう頬を抑えるように手を添えて、私は上目使いで大石先輩を見上げた。
「大石先輩こそ、いいんですか……?」
「うん。俺は別に何の予定もないから。部活がなくなってから結構暇なんだよ」
 そう言う意味じゃなくて、私と一緒にって意味で聞いたんだけど……でも、先輩の方からわざわざ誘ってくれたんだから、いやじゃないって事だよね?
「それじゃあ、ぜひ」
 大石先輩が持つ、積もった雪を溶かす春の柔らかい日差しを思い出させる空気に、なんだか私はすごく安心してた。
 悲しかった事も、辛かった事も、この瞬間だけはすっかり忘れて微笑む事ができて。
 大石先輩はほんの一瞬、何かに驚いたのか真顔になったけれど、すぐにいっそう素敵な笑顔を見せてくれた。


後編へ続く
テニスの王子様
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