君に望むもの

「俺、別にアンタに興味無いから」

 今は全国大会が終わり夏が過ぎ去った、紅葉の季節。
 他所の学校の例に漏れず、俺達三年は夏の終わりと共に部活を引退した。
 とは言え青春学園は大学までのエスカレーターで、高校に入るための試験はあるけど受験勉強とは無縁。つまり一般の中学三年生に比べると余裕があって暇を持て余しており、残された後輩達が「今日練習に付き合ってくれませんか?」と誘ってくれば、まず断わらない……どころか喜んでテニスコートに向かう。
 今日はダブルス強化訓練をやるとの事で、アドバイスに来てくれないかと桃に誘われた俺だけど、HRが終わってすぐ部室に向かったわけではなかった。中庭の並木道が、紅に染まって本当に綺麗だったから、少し寄り道をして眺めようと思ったのだ。
 強い風は乾いた紅い葉を散らし、散った葉は美しく舞う。
 もし俺が小さい頃に読んだ童話の主人公だったら、この風に飲み込まれて異世界へと旅立つだろう――そんな子供じみた事を考える自分がおかしくて、俺はついつい笑ってしまった。
 そんな時だった。
「俺、別にアンタに興味無いから」
 聞き慣れた、変声期を終えていない少年の声がかすかに耳に届いたのは。
 ふと声がした方に顔を向けると、ふたりの人影が見える。片方はすぐに判った。声の主である越前リョーマ。この夏全国にその名を知らしめた天才ルーキー。
 もうひとりは女生徒だ。長いおさげを風に揺らして、真っ赤な顔で俯いている。泣きそうな顔をして。
 数瞬後、その少女が竜崎先生のお孫さんの桜乃さんだと理解した俺は、わざとではないと言え告白シーンを覗いてしまった事に気付き、慌てて太い幹に身を隠した。
 つまり、竜崎さんは越前に告白し、越前は……竜崎さんをふったのか。
 俺は竜崎さんと直接話した事はほとんど無い。けれど彼女が女子テニス部で練習している姿を何度か見かけたし、フェンスの向こうで楽しそうにランキング戦を見学(今思えば彼女は越前を見に来ていたのだろう)している姿をよく見ていたので、印象はある。何事にも一生懸命で、儚げで、引っ込み思案なかわいらしい女の子なのだろうと思っていた。
 そんな彼女が放課後に好きな男を呼び出し、告白するには、どれほどの勇気を必要としたのだろう。その返答として「アンタに興味は無い」は、あまりに酷すぎるのではなかろうか。
 だが俺はもちろん、出て行くわけにはいかなかった。相手に欠片の希望も残さない越前の言葉は、中途半端な同情より優しいふり文句に思えない事もないし、仮に越前が労わりでもなんでもなくただ無神経に相手を拒絶したのだとしても、第三者である俺に介入する権利は無いだろう。竜崎さんに余計に恥をかかせる事になってしまうから。
「ご、ごめんね、リョーマ君」
 震える声は、なぜだろう。俺に言われた言葉ではないのに。
「これから、部活あるのに、呼び出したりしちゃって……部活、試合とか、がんばってね」
 俺が彼女を傷付けたわけではない。彼女は寂しげな声を俺に向けて発しているわけではない。
 それなのに、涙を堪えながら紡がれたと思われる声は、不思議と胸に痛くて。
「アンタもね」
 ふたりの間に交わされた言葉はそれが最後。
 芝の上に積もった枯葉を踏み付ける軽い音が近付いてくる。気付かれるかとドキドキしながら身を強張らせていると、竜崎さんは俺に気付かず走りぬけて行った。
 羞恥によってか、悲しみによってか、一瞬近場で見る事ができた彼女の顔の赤さは妙に鮮やかに俺の目に焼き付いて、目尻を輝かせる彼女の涙は、再び締め付けるような痛みを俺の胸中に呼び込んだ。
 悲しまないで、とか、泣かないで、とか……陳腐な慰めの言葉ばかりがあとからあとから浮かび上がる。その言葉をかける相手は、もうここに居ないのに。
「覗きなんてシュミが悪いっスよ、大石先輩」
「ぅわっ!」
 ぼんやりしながら竜崎さんの背中が消えた角をずっと見ていた俺は、すぐそばに近付いていた越前の声がかかると心臓が飛び出るほど驚いて、脈拍をいっきに倍増させる。
 いつの間に近付いてきていたんだ、越前。
「す、すまん越前。見るつもりも聞くつもりもなかったんだ。紅葉が綺麗だと思ってたまたま来たら、たまたまお前達が居て……」
「そんなとこだろうとは思ってましたよ。桃先輩や堀尾たちならともかく」
「だが、覗いてしまったのは事実だ。本当にすまない」
「俺は別にいいっスよ」
 焦りも戸惑いもなく、越前はさらりとそう言い切った。
 ずいぶんあっさりしているなあと思ったが、そんなものなのかもしれない。越前は顔が綺麗だし、テニスも上手い。名門青学テニス部においてその二点を誇れる人物はまず女子にもてるから、呼び出されて告白されてふる事なんて、日常茶飯事……とは言い過ぎかもしれないけれど、しょっちゅうある事なんだろう。わざわざ隠すのも面倒くさくなるくらいには。
 いや、面倒くさがりは本人の性格か。
「越前、このまま部室行くのか?」
「そうっスけど」
「そうか。じゃあ一緒に行こう。今日は俺も部活に顔出すんだ」
 越前が小さく頷いたので、俺達は並んで歩きはじめた。
 テニスプレイヤーとしてはお世辞にも満足とは言えない越前の身長は、入部した頃に比べて幾分伸びた。あと十センチも伸びれば、今より更に強くなり、ついでに女子からの人気も上がるだろう(反比例して男子からは嫌われるかもしれない、越前の性格上)。
 竜崎さんのような女の子は、これから増える一方なんだろうな。
「なんか言いたそうな顔してますね、大石先輩」
 越前の涼しげな目が俺の心を見透かすように見上げてきて、俺はまたまた驚いた。
 さっきから驚いてばかりだ。俺は無意識にヒーリングを求めて紅葉を見に来たのだろうに、中庭に来てから心穏やかになる暇がない。
 不思議な事に、俺の心を一番動揺させたのは、この少し生意気で不敵な笑みを浮かべる後輩ではなくて。
「なんでもない、越前の残り二年半の中学校生活を心配しているだけだよ。さしあたって問題なのはクリスマスだな。誕生日も重なっているから凄い事になりそうだ」
「げっ。なんかプレゼントとか沢山つまれるんスか、もしかして。知りもしないヤツからそんなんもらったって気持ち悪いだけっスよね?」
「そう……かな?」
 幸いと言うべきか、残念ながらと言うべきか、俺は手塚や不二(や将来の越前)のように、持ちかえれないほど顔と名前が一致しない人からものを貰った事がないから、返答に困るのだけれど。
「俺は、俺の事を好きだと言ってくれる人から心のこもったプレゼントをもらえるなら、それはとても嬉しい事だと思うけれど……お前たちほど貰う事になったら、意見を変える事になるかもしれないな」
「俺は一個でも嫌ですけどね。特に手作りなんて最悪っス」
 それはとても越前らしい返事に思えた。
 さっき越前は竜崎さんに「興味がない」と言っていたけれど、別に竜崎さんに限った事ではないのだろうと思う。こんな言い方されても嬉しく無いだろうけど、竜崎さんは呼び出しに応じてもらえただけマシなんじゃないかな……少なくとも、越前に認識されているって事だから。
 おそらく越前は、こうして隣を歩いている俺にもさしたる興味はないだろう。今の彼が強い興味を抱ける相手は、コートで向かい合い、競い合う事のできるテニスプレイヤー――すなわち、手塚や不二や、あるいは全国大会で戦った相手――だけに違いない。俺は自分の力を卑下するつもりはないけれど、シングルスではとても越前に敵わない。ダブルスなら負けるつもりはないけれど。
 そう言う越前だから、やっぱりさっきのふり方は正しかったのかとも思う。一時的な傷はすごく深いだろうけれど、高みを目指し続ける越前相手に、下手に望みを持って想いを引きずるのはもっと辛い気がする。
 越前の事が、竜崎さんの中で綺麗な思い出になるといいな。
 優しい思い出になるのは難しいだろうから、ただ綺麗な過去になればいい。いつかふと思い出した時に、懐かしいなあと微笑む事ができるように。
 俺は部室に向かいながらそんな事を願っていたけれど――なぜそんな願いを抱いているのかと、疑問を覚える事はなかった。


後編へ続く
テニスの王子様
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