君に望むもの

 中庭で見たまるでドラマか漫画のようなワンシーンは、他人事ながら俺の中に巣食ってしまい、なんだか上手く寝付けなかった。
 舞い散る枯葉がこすれあうBGM、いつも通りにクールな少年の瞳、勇気を出した少女の悲しげな顔、震える声、それから――涙。
 他人事。そう、これは他人事なのだ。俺がうかつに口を出す事ではない。
 労わってあげられたらと心のそこから思うけれど、俺は恋愛沙汰にまったく慣れていないから、下手に手を出すと傷付けてしまいそうで怖い。それに俺なんかが慰めてあげなくても、彼女なら泣きつける女友達が居るだろう。そう言う子が彼女の涙を受け止めてあげればいいのだ。
 俺は彼女のために何もできない、何をする権利もない。
 俺と彼女には何の接点もないのだから。

 引退してから鍵当番ではなくなったと言うのに、ついつい癖でふたつかけてしまう目覚し時計。
 いつもなら「またやっちゃったよ」と自分を呆れるのだけれど、今日は「よくやった」と誉めてあげたい。無意識にひとつめを止めてしまっていたので、ふたつめの目覚ましが役に立ったのだ。
 すっきりしない目覚めだけれど、この程度で遅刻をするわけにもいかないので、体をむりやり起こして学校へ行った。
 授業中に居眠りをするのは何とか耐えたけれど、いつものようには頭の中に入らなかった。家に帰ったら念入りに復習しなければならないなとか考えながら、ノートや教科書をバッグに詰めていると、理科のノートが足りない事に気付く。
 今日はノートを誰かに貸した記憶はない。さすがに勝手に持っていったりしないだろうし……だとすると、実験室に忘れてきたのかな。今日移動教室だったし。
 俺は下校には遠回りになるけれど、理科も復習したい教科のひとつだったから、実験室に寄る事にした。そこになければ今日はもう諦めて早めに寝よう、なんて開き直ってみたりもして。
 実験室の中には人が居た。ぱたぱたぱた、と動き回る足音や、道具がこすれ合っているのかガラスが軽くぶつかる音や、水の流れる音がドアの向こうから聞こえてきたのですぐに判った。
 六時間目に授業したクラスの子が片付けでもしているのかな、と、あんまり意識もせずにドアを開けて。
 俺はそのまま固まってしまった。
「りゅ……うざき、さん?」
「え、あ……大石先輩?」
 そう、流しでビーカーを洗っていた女生徒は、俺の寝不足の原因である竜崎さんだったのだ。
 俺は一瞬、慌ててこの場を離れようと思ったけれど、それはいくらなんでも怪しい。竜崎さんは昨日俺が見ていた事なんて知らないんだから、ちょっと顔見知りの先輩が突然実験室にやってきて、何も言わずに逃げたら何事かと思うだろう。
「どうしたの? ひとりで片付け?」
 できる限り普段通りに勤めようと、俺は笑顔で竜崎さんに話しかけた。
「はい、その、今朝遅刻をしてしまって。担任の先生が、罰として放課後実験室の片付けをしておけって」
「竜崎さんのクラス担任って、理科の先生なんだ?」
「えっと……そうです。あと六時間目ここで授業だったので」
 竜崎さんは恥ずかしそうに顔を伏せる。
 瞬間、昨日と同じ痛みが俺の胸を襲って。
「ああそうか」と、なんとなく理解した。彼女が遅刻したのは寝坊したからで、寝坊した理由はおそらく――。
 もう、泣かないで。
 その一言が喉の奥で詰まり、苦しくなる。
 何よりも強い願い、何よりも伝えたい言葉。
 けれど俺は、その言葉を紡ぐ事が許されない。
「大石先輩はどうしたんですか? 放課後に実験室なんて」
「え、ああ。理科のノートが見当たらなくて、ここに忘れたのかと思って探しにきたんだ。俺は今日五時間目に実験があったんだよ」
 俺は自分が座っていた席の机の上や、机の下の棚なんかを探してみたけれど、ノートは見つからなかった。
 うーん。ここでないとすると、どこで無くしたのかな……?
「あ、忘れ物のノート!」
 竜崎さんはビーカーを洗うのもそこそこに、ハンカチで手をふいて、教卓の方に走っていく。なんだか危なっかしい走り方だ。
「授業が始まる前に先生が片付けていたの、私見ました。あれが大石先輩のノートかは判らないですけど……えっと、これですか?」
 教卓の下から竜崎さんが取り出したのは、見慣れた青いノート。裏にクラスと名前をはっきり書いているけれど、見なくてもそれが自分のだと確信できるくらいに。
「そう、それだ! ありがとう竜崎さん」
「先生、あとで届けるみたいな事言ってましたけど、忘れちゃってたみたいですね」
「そうなんだ。よかった、取りにきて……竜崎さんが居てくれて」
「いえ、そんなコト……」
 彼女は胸の前で小さく両手を振り、照れくさそうに少しだけ微笑んだ。
 俺はなんでか、それがとても嬉しくて。
 泣かないでと言う俺の願いが、僅かながらも叶ったから、かな。
 うん、本当によかったよ。五時間目にノートを置き忘れて、放課後に取りにきて。竜崎さんが偶然、ここに居てくれて。
 竜崎さんが、微笑んでくれて。
「まだ洗い物は残っているの?」
 俺はバッグにノートをしまい込むと、腕をまくって流しに近寄る。
 ざっと見たところ、あと10個くらい残っていた。洗い終わっているやつも丁寧に拭いて棚に戻さないとならないから、全部ひとりで片付けるのはちょっとした手間だな、こりゃ。
「手伝うよ。ノート見つけてくれたお礼に」
「え、そ、そんなっいいですよっ! 悪いですっ。私の仕事ですからっ」
 竜崎さんは慌てて、むきになって遠慮した。俺は彼女の事を詳しく知っているわけじゃないけど、なんだかとても「らしい」ななどと思ってしまい、おかしくてつい笑い声を漏らしてしまう。
「いいからいいから、遠慮なんてしなくていいよ。今日も部活あるんだろう? 女子部の部長さんは優しそうだけど、だからってあんまり遅れないほうがいい」
 そう言って俺は問答無用で洗いものをはじめた。
「……はい、すみません。ありがとうございます」
 竜崎さんはすっかり恐縮してしまって、手伝うなんて言い出して悪かったかなと思ってしまったけれど、少し西に傾き始めた日の光がまぶしいこの部屋に、ひとり残して立ち去る気にはどうしてもなれなかった。
 それにこうして並んで作業して、他愛もない会話を交わす事が、俺にはとても心地よかったから。
 ありがとうなんて、言わなくていいんだ。
 むしろ俺が礼を言って、謝らなければならないくらいなんだから。
 ごめんね、俺の身勝手で……君の心に負担をかけてしまって。
「さ、これで最後だ」
 作業をしながら他愛もない会話を交わす安らいだ静かな時間は、駆け抜けるように過ぎ去ってしまう。専用の雑巾で最後のひとつとなった濡れたビーカーを拭いて、完了だ。
「ありがとうございます、大石先輩。おかげでずっと早く終わりました」
 竜崎さんはおさげが床につくんじゃないかと言うくらい深々と頭を下げた。なんだか、何をさせてもあぶなっかしい子だな。
「本当に気にしなくていいから。さて、あとは棚に片付けるだけだね。後ろの棚でいいのかな?」
「いえ、あとは私がやりますから、大丈夫です。」
 まあ確かに、洗っている最中も竜崎さんはちょくちょく棚との間を往復して片付けていたから、ここに残っているビーカーはあと三個。わざわざ俺が手伝うまでもないか。
 俺が笑顔で頷くと、竜崎さんはビーカーを抱えて、棚に向けて走り出す――途端。
 竜崎さんは流しから跳ねた水が作ったほんの小さな水たまり(竜崎さんの小さな足の、半分にも満たないくらい)に足を踏み入れてしまい、滑ってよろけた。
「きゃっ……!」
「竜崎さん!」
 俺は反射的に右腕を伸ばし、転びそうになる彼女を受け止める。
 女の子の中では標準なのかもしれないけれど、俺に比べればはるかに小さくて、加えて細い彼女は、驚くほど軽かった。
 踊る彼女の髪は、微かな甘い香りと頬をくすぐる感触を俺に届けて――ふと、春風に散らされる桜の花びらの美しさを思い出す。
 心臓が、鳴った。
 感動とも、恐怖とも、動揺とも違った何か。あるいはその全てが混じった不可思議なものが、俺の胸を揺さぶる。
「す、すみません大石先輩!」
 慌てた彼女の高い声が俺の耳に届き、彼女が俺から離れるのがあと一秒遅かったら、俺はどうなっていただろう。考えるだけで怖い。
「だ……いじょうぶ? 竜崎さん」
「はい、大丈夫です。私もビーカーも。大石先輩のおかげで転ばすにすみましたから」
「なら、よかった」
 俺はこの時笑ったつもりだけれど、本当に笑えていたか自信がない。竜崎さんが俺を不信がる様子を見せなかったから、大丈夫だと思うけど。
「じゃあ、俺帰るから。部活がんばってね、竜崎さん」
 そう言ってバッグを掴み、俺は実験室を飛び出す。怪しまれないようにとそればかり考えて、しばらくは早歩きで、実験室からだいぶ離れた事を確認すると走って昇降口に向かった。
 俺はよく判らないふりをしていた。けれど、自覚せざるをえなかった。彼女を可愛い以上に美しいと思い、抱きしめそうになった自分に気付いてしまったのだから。
 俺はきっと、竜崎さんが好きなんだと思う。
 曖昧で複雑な感情は、心地よいものでありながらそれでいて不可解で不愉快で、始末に困る事この上ない。しまいこんで忘れるにはまだ新しすぎるし、だからと言って――。
 ふう、と深いため息ひとつ。部活をやめてから久しぶりに吐いたため息かもしれない。
 俺は昇降口を出ると、すぐに振り返った。実験室の電気が消えているのを確かめるために。
 うん、大丈夫。ちゃんと消えている。教室に戻ってラケットを持って、彼女は部活に行くだろう。昨日の傷はまだ疼くかもしれないけれど、楽しい事も幸せな事も、きっと沢山あるから。
「がんばれ、竜崎さん」
 もう泣かないでほしい。笑っていて、ほしいんだ。
 俺は今、それだけを望むよ。


テニスの王子様
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