普通って何?

 ボールが壁にぶつかる音、ボールが地面を跳ねる音、それからインパクト音。
 俺は一定のリズムで繰り返される音を聞きながら、音が鳴るたびに動きを変えるボールを目で追っていた。もうずいぶん長い事見ているが、決まりきったルートを外れる様子はない。
 視線をボールから、ボールに向かい合う人物に移す。こちらも、さっき見た時からまったく変化がない。綺麗に安定したフォームが崩れる事はなかった。
「何見てるんだ?」
 視線はボールに向けたまま、リズムを保ったままで、ボールに向かい合う人物――大石――はそう言った。
 なんだ。気付かれていたのか。
「データを取っているだけさ。気にしないでいいよ」
「今更俺が壁打ちしているデータを取ってどうするんだ? 昔から変わりばえしないだろう?」
 ボールが地面を打ち、しかし次のインパクト音はしなかった。自分の正面に帰ってきたボールを左手で受け止め、大石は俺に振り返る。
「そうでもない」
 俺は大石の横を素通りして、それまで何十回、何百回もボールを受け止めていた壁に近寄った。
「そう言えば……入部当初、『大石に話しかける時はひとりで壁打ちしている時』と決まっていたな」
「なんだ? その意味不明なルール」
「それだけ手塚に近寄りがたかったと言う事だろう」
「……ああ」
 納得しながらも胸中は複雑なのか、大石は苦い笑みを浮かべた。
「それで、よく壁打ちの時に質問を受けたんだな」
 言った大石の表情は変わる事がなく、蘇った思い出があまり嬉しいものではないのだと言う事を伝えてくる。
 それもそうだろう。
「何でお前みたいな普通なヤツが、手塚みたいな普通じゃないヤツと友達になれるんだ、って」
 大石が打算だけで手塚のそばに居たのなら、手塚のそばに居る事で優越感を得るようなやつだったら、羨望や嫉妬が混じったその問いに、胸を張って自慢げに答える事ができたのだろう。
 もっとも、そう言うやつを手塚が親友に選ぶとは思えないが。
「その度にお前は答えていた」
「……『普通って何?』」
「なんだ。憶えているのか」
「忘れられるものか。むしろ……そんな事までデータにおさめてるお前が不思議なんだが」
 言いながら俺に向けられた大石の視線は、少し冷たかった。
「言葉の端々には人間の性格が現れるものだろう? 性格は、プレイスタイルにも影響する。充分役に立つデータだよ」
 七割程度の真実に三割程度の言い訳を交えて返すと、大石はなんとか納得してくれたようだった。腕を組んで考えこむそぶりを見せたが、俺に質問を重ねたり俺を責めたりする気はないらしい。
「『普通じゃない』って言葉を、『凄い』って意味に使っているならいいんだけど、完全にそうは聞こえなくてね。少し腹を立てていたんだ」
「……そっちに腹を立てていたのか?」
「? 他に腹を立てるところがあるのか?」
「いや」
 俺は短く断わり、メガネを押し上げて間を取る事で、話を濁した。
 普通は……自分を『普通』と断定された事に気分を悪くするものではないだろうか、と思うんだが。
「『凄い』って意味なら、言いたい気持ちが判らなくもなかったんだけど――そういえば、乾はそう思った事ないのか?」
 大石の純粋な疑問に、俺は迷う事なく即答した。
「ない」
 気を使ったわけでなく、本当の事を答えただけだったが、大石はそれまで苦い色に染めていた表情をあっさりと明るい色へと変えた。
「ありがとう」
「おーい、大石ー!」
 ちょうどその時、遠くから大石を呼ぶ声がする。
 菊丸の声だ。おそらく使う予定のコートが開いたのだろう。
「じゃあな」
 大石は俺に向けて軽く手を振って、コートに向けて全力で走っていく。
 ふむ。我らが青学の誇るゴールデンペアの試合のデータも気になる所だが……。
 俺は大石の背中をしばらく見送り、こちらに振り返らないだろう事を確認してから、壁の方に向き直った。壁、と言うよりは――くっきりと丸く残る、テニスボールの跡に。
 俺が数え間違えていなければ、大石は壁打ちを百七十三打していたのだが。
「誤差1.4ミリ、と言ったところかな」
 こんな芸当をやってのける奴が、普通であってたまるか。


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テニスの王子様
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