君のためにできること

 立ち上がりながら「帰るか」と言おうとした南が、固まったのが判った。
 南はみんなが帰った後の静かな教室の中で、窓からさしこんでくる西日に眩しげに目を細めながら、机の中のノートやら教科書やらをバッグに詰替えていた。今日は数学の宿題が出ていたから、数学くらいは持ち帰るんだろう。
「ワリ、東方。ちょっと待っててくれるか?」
 フリーズを解いて再び動き出した南は、荷物をバッグに詰めこんで、けれどそれを肩に担ぐ事はしなかった。少しイラついてるのか、引いた椅子を乱暴に机の下に押し込めて、荷物を置き去りに教室を出ようとする。
「どうしたんだ?」
「昨日宿題出た英語のプリントをな」
「ああ、明日提出の」
「それ、昨日の内に終わらせてたんだけど、今朝なくしちまったの今思い出した。ちょっと新しいのもらってくるよ」
 大きなため息を吐く南の背中は、窓から斜めに射し込んでくる西日に照らされて、オレンジ色に染まっていた(制服が白いから映る色が鮮やかなんだ)。それが妙に哀愁漂って見えたのは……まあ、気分の問題か。
 真面目に宿題やってんのに、はじめからやり直し、か。まったく、運の悪い奴だよなあ。
「怒られないといいな」
「平気だろ。普段真面目だから、俺」
「それもそうか」
 南の背中を見送りながら、ああそう言えば俺まだプリント終わってなかったな、とふと思い出した。
 昨日部活の後に机に向かってほとんどは終わらせたけど、見たいテレビがあった事を思い出して放り出して、そのまま眠いから寝てしまったんだっけな。
 バインダーに挟んだプリントを引っ張り出すと、残りはたったの二問だけだった。これくらいなら南が戻ってくるまでに解けるかもしれない。俺はシャーペンも取り出して、問題文に目を通す。えーっと……。
「やっほーい、地味’s!」
 がらり、とドアを開けて、飛びこんでくる影がひとつ。髪の色が明るいから、全身がオレンジに見える千石は、「あれ?」と首を傾げながら俺を見下ろした。
「メンゴメンゴ! ただの地味だった! 単数形だ!」
「ああ、そうだな……」
 俺が適当に答えた事が気に入らなかったらしく、「つまんないやつ!」と勝手な事を言いながら、千石は俺の前の席に座る。
 ラスト一問に突入しようとしている俺の手元を覗き込んで、
「あれ。東方、まだこのプリント終わってなかったんだ!」
 なんて言いやがった。
「お前は……終わったのか?」
「うん」
「お前のクラス、今日が提出期限だったのか?」
「ううん、違うよ。明日。でも、せっかくだから今日出しちゃったよ。今日も英語の授業あったしね」
「へえ、すごいな」
 珍しい事もあるもんだなあ。いつもは提出期限ギリギリの授業中にやってるのに。それにも間に合わなくて、放課後に南や俺を頼ってくる事もあるくせに。
「うん、凄いんだよ!」
 俺が最後の一問を埋めて、プリントをたたんでバインダーに挟みこむと、千石はにっかりと笑顔を浮かべて、俺を上目使いに見上げてきた。
 どうやら、話を聞いて欲しいらしい。
「何が凄いんだ?」
「もーそれがさ! 朝連が終わった後ね。いや、HR終わった後だったかな。とりあえず朝にさ、あーなんかやだなー英語の宿題、とか思いながら歩いてたわけ」
「いつもの事だな」
「うんそうなんだけど。したらさ、ばさーって、顔に何かがかぶったわけ! 俺、アンラッキー! って思ったね!」
 確かに、顔に得体のしれないものが被ったら、気持ち悪いかもな。そこそこアンラッキーだ。
「でもさ、違ったんだよ! それは神さまからの贈り物でさ! アンラッキーどころか、すっごいラッキー! 俺が嫌だなあと思っていた英語のプリントが、全部回答欄が埋まって降ってきたんだからね!」
 それは確かに、ラッキーかもしれない。
 ……が。
「しかも名前が書いてなくってさ。落とし主、判るわけないじゃん? もう、これは俺のものにしなさいって神さまのお告げだと思ったわけよ。で、俺の名前書き込んで、そのまま提出! 先生にもやればできるんじゃないって褒められて、ほんとラッキーだったよ」
 誰かの幸運は、別の誰かの幸運を犠牲にして成り立つんだって、聞いた事があるのを思い出す。まさに今のが、そう言う状況なんだろう。
 とは言え、千石が拾ったプリントには名前が書いてなかったから、南のものとは限らない。もし南のものだったとしても、千石のものとして提出されたものを回収して出しなおす事は、少し難しいだろう。いくら南の日頃の行いが良いからって、そんな冗談みたいな偶然、信じにくいだろうし。
「千石」
「ん?」
「その話、南にはするなよ」
 俺が言うと、千石は眉間に皺を寄せた。
「へ? なんでさ」
 せっかくのラッキーをみんなに聞いて欲しい千石としては、口止めされるのが納得いかないらしい。せめて納得がいくように説明しろよ、と言いたげな目をしている。
 なんで、ってなあ。
 どうせはじめからプリントをやり直さなければならないんだから、こんな現実は知らない方が、南は幸せだ。きっと。
「なんでもだ」
 俺がアンラッキーな南のためにできる事は、これ以上底に叩き落さない事と、プリントを写させてやる事くらいだ。よな?


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テニスの王子様
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