教室スケッチ

 いつものバネなら、大声出して名前呼びながら、教室の中に飛びこんでたところだ。
 けれど、ぴったり閉じられたドアの窓から覗いて見えたダビデの横顔は、いつもと違う雰囲気を秘めていて、とても真剣だった。バネもそれに気付いたらしく、声を出すどころか、足音もあまり立てないように静かに歩いて、静かにドアを引く。
 ダビデは誰もいない静かな教室の、一番後ろの席に(背が高いからな)どっしりと腰をおろして、目の前に広がる光景と、膝の上に斜めにかまえた大きなスケッチブックに交互に視線を送っていた。
 机の上には絵の具と、パレットと、水の入った小さなバケツ。ダビデの右手に握られた筆が、スケッチブックの上を走っている。
「美術の宿題か?」
 ダビデが筆をいったんバケツに放りこんだのを確かめてから、バネは声をかけた。それでようやく俺たちの存在に気付いたらしいダビデは、俺たちを見上げる。
「うぃ」
 ダビデは頷いて、また視線をスケッチブックに戻した。
 俺たちがダビデに近付いて、膝の上にあるスケッチブックを覗き込むと、鉛筆で描かれた教室の風景が飛びこんできた。ラフに近い主線に薄い茶色だけで色付けされたそれは、手放しで褒められるほど上手くもないけれど、セピア色の写真のような、懐かしい気持ちを呼び起こさせるものだった。
 俺はダビデの背後に立って、ダビデの目から見える教室を眺める。
 スケッチブックに描かれたものとは印象がずいぶん違っていた。今俺の目に映っているものは単なる現実で、スケッチブックに描かれているものが、ダビデの目に映っているもの、なのかもしれない。
 なんか、おもしろいな。こう言うのも。
「ふたりともどうした? 二年の教室なんかに」
 パレットに緑色の絵の具をひねり出しながら、ダビデは言う。
 緑? 黒板でも塗る気か? 黒板のところは、まだ白いまんまだし。
 まあ悪くはないけれど、茶色だけで作られたいい雰囲気をその一色がぶち壊してしまいそうで、なんだかもったいないな。
「今日は部活がないから、いつもみたいにみんなで海に行こうって思ってよ。でもお前、ぜんぜん降りて来ないから迎えにきたんだ。もしかしたら上履きで帰っちまったんじゃねえか? って話してたんだけどな」
 からからと笑うバネに、ダビデは答えた。
「そんな事、しない」
 反論が弱々しかったのは、過去にそんなミスをしかけた事があるからで、ダビデは少し拗ねたような表情で、もう一度筆を手に取る。
 さっき出した緑に、色んな色を少しずつ混ぜこんで。作られた落ち着いた色あいは、今ある世界を壊すことはしなさそうで、俺は少しほっとした。
「俺、遅れてく。美術の宿題やんないと。授業中に終わらなかったから」
「〆切り、近いのか?」
「今週中だけど、『校内から見える風景』ってテーマだから、学校でやんないとだし。明日から部活だし、今日中にやっとかないとダメ」
「そっか。しょうがねーな」
 バネは納得して頷いて、ダビデが新しくつくった色をスケッチブックに置くのを確かめた。
 薄く、渋い、和風テイストを感じさせる緑色は、やはり黒板に塗られた。ダビデは原色が好きそうなのにな。こんな繊細な色を出すなんて、意外だ。
 ま、この二色で全部ごまかそうって魂胆が見えなくもないけどさ。たとえ手抜きでも、俺はこの絵、けっこう好きだぞ。
「あ!」
 黒板いっぱいに色を広げたところで、ダビデは筆を止めた。
「どうした? 失敗でもしたか?」
「ううん」
 ダビデは軽く首を振ってから、
「真っ茶色が、抹茶色になった!」
 バネに思いっきり蹴り飛ばされた。
「だからつまんねーんだよ!」
 その勢いで、筆はスケッチブックを斜めに走り、完成間近の教室の絵を、無惨な状態へと変えた。色が薄いし、修正しようと思えばできるだろうけど。
「ひどい! バネさん! やりなおしになった!」
「知るか! くだらねえ事いいやがるからだ、このアホ!」
 俺は三歩下がって、嘆くダビデと怒鳴るバネを見比べた。
 さて。
 みんなを待たせるのもなんだし、俺は先に、海に行ってようかな。


お題
テニスの王子様
トップ