花束

 玄関の開く音に少しだけ遅れて聞こえてきた「ただいま」は、お兄ちゃんの声だった。
 玄関からリビングに繋がる廊下を歩く足音が近付いてくるのを待ってから、「おかえり」って言って、私はスプーンでアイスを掬う。大好きな抹茶アイスを口に入れると、甘味の中に隠れるほろ苦さが口の中に広がっていった。
「杏」
 私が抹茶アイスを食べている時だけは絶対に邪魔しないお兄ちゃんが、突然私の名前を呼んだから、ビックリしてスプーンを持つ手を止めて振り返ると、私は更にビックリしてスプーンを落としそうになっちゃった。
 だって、お兄ちゃんってば、花束持ってるんだもん。そんなに大きくはないけど、春らしくたくさんの色が散りばめられている、かわいい花束。
「花瓶、どこにあるか判るか?」
「あ、うん。出しておくけど……どうしたの、それ」
 あんまり似合わないから、ちょっと笑いたくなったんだけど、それよりも好奇心が上回って、私は一生懸命笑いをこらえた。笑っちゃったら機嫌を悪くして答えてくれないかもしれないもんね。
「俺が自分のために買うわけないだろうが。もらったんだ」
「誰に?」
 質問を重ねると、お兄ちゃんは答え辛そうに言葉を詰まらせてから、
「……まあ、いいだろう。誰からでも」
 なんてわざとらしくにごしちゃって。
 何それー! そんな言われ方したら余計に気になるに決まってるじゃない!
「何で隠すの? 女の人?」
「どうでもいいだろうが」
「良くないよ! ねえ、綺麗な人? それとも、かわいい感じ?」
「お前、何かを激しく誤解してないか」
 だって、わざとらしく隠すんだもん。誤解したくもなるじゃない。
 私はお兄ちゃんににじり寄って、お兄ちゃんの答えを待ってみたんだけど、
「まあ、美人と言えば、美人だな」
 お兄ちゃんはそう言って、曖昧に微笑むと、自分の部屋に行ってしまった。

「ねえ深司くん。昨日、お兄ちゃんに花束贈ったりした?」
 次の日のお昼休み、廊下でばったり会った深司くんに訊ねると、深司くんは眉間に深い皺を刻んだ。
「なんで俺がそんな事するのさ。どうせ贈るなら別のもの贈るよ」
「そうだよね〜……」
 私もそんなわけないとは思ったんだけど、お兄ちゃんに贈りものする人なんて、私が思い当たる範囲では深司くんたち部活の後輩しかいなくって。しかも深司くんなら、「美人と言えば美人」なんてひっかかる言い方しても納得できるじゃない? 男の子だもんね。
 うーん、深司くんでもないとすると……。
「じゃあさ、最近お兄ちゃんに彼女ができたとか、知らない?」
「先週、ストリートテニス場でみんなでテニスしたけど。そんな人が居たら、部活が休みの日くらいはその人とデートとかするんじゃないの」
「そうだよね〜……」
「まあ、昨日今日できたってなら、話は別かもしれないけど」
 深司くんはぽそりと呟いて、私の横をすり抜けていく。
「う〜ん……」
 彼女ができたってのは、やっぱり考えにくいかなあ。
 普通花束なんか贈らないよね。特にお兄ちゃん、似合わないし。似合わなくても喜んでくれるなら贈る甲斐があるけど、それほど花が好きでもないもんね。趣味を知らなかった……ら、やっぱり花なんて贈らないか。私だったら、花を贈るくらいなら手作りのお菓子とか贈るもん。
 廊下に立ったまましばらく悩んでいると、お昼休みの終わりを告げる予鈴が響きはじめた。
 あ〜もう、しょうがない。とりあえず、またあとで誰かに相談しようかな。
 そう言えば、今日は確か、三年生だけ放課後に集会があるとか言ってたし。男テニの部室で神尾くんたちに聞いてみよう!

『橘さんに、花束ぁ?』
 さすがダブルス、と言うべきかしら。石田さんと桜井くんは、バッチリ声を合わせてそう言った。
 疑問と言うか、不満と言うか、微妙な感情が混じってる感じ。うん、それは、判るな。私もそうだから、みんなに聞いて回ってるんだもん。
「知らねーな。ってか、普通男に花束贈るか? 相手が花好きだってならともかく」
 みんなが思ってる事を、代表して言ったのは内村くん。深く被っている帽子を、ぐいっと引いて、更に深く被った。
「俺そう言えば、花屋に行って花買った事ねえや」
 神尾くんが突然そんな事を言い出して、男の子ってそんなものなのかなあ、って思ったけど、言われてみれば私も自分で買ったはあんまりないな。お母さんやおばあちゃんたちに付き合って行くくらい(だって高いんだもん)。
「母の日にカーネーション買ったりしなかったの?」
 そんな神尾くんに森くんが尋ねると、
「それは姉ちゃんが買ってきてくれた」
 神尾くんは神尾くんらしく素早く切り返した。
「そっか。お姉さんが居るとそう言う時いいね」
 なんだか森くん、照れくさそうに笑ってる。いつも自分で買いに行ってるのかな。
「ともかく、俺たちは知らないや。ごめん、役に立たなくて」
 石田さんが両手を合わせて丁寧に謝ってくれて、その隣で桜井くんも困ったように笑ってる。
 話を別の方に持ってっちゃった神尾くんや森くんが知ってるとも思えないし、内村くんだって知ってたら答えてくれるだろうし。
「深司とかは? あいつならそんな妙な事、やりそうじゃね?」
 突然、ふと気付いたのか、神尾くんは何か係の仕事でまだ部室に来てない深司くんの名前を出した。
 やっぱり考える事は一緒なのかな。他の四人も、「ああ!」って納得した声出したりして。
「深司くんにはもう聞いたの。でも――」
「妙な事やりそうとか良く言うよね。俺はそんな事してないし、仮に俺が橘さんに花束贈ったとしても、神尾の髪型とか口癖や、石田の趣味ほど妙じゃないだろ……?」
 私の声を遮って聞こえてきたのは、聞き慣れたくないけれど慣れてしまった低くかすれたぼやき声。
 みんなは一斉に、部室の入口の方に振り返った。
「うわっ、深司! いつの間に!」
 一番驚いたのは神尾くんで、今にも椅子から転げ落ちそうな感じ。
 ちなみに石田さんは、「そんなに妙かなあ……確かに少しはずれてるかもしれないけど」なんて、少し落ち込んでる。
 そんな石田さんに気付く様子もなく、深司くんはギロッ、て神尾くんにらみつけて、それから私たちの方に近付いてきた。
「俺、知ってるよ」
「え?」
「橘さんに花束渡した人」
 どさり、と荷物を置く重い音。いつもの静かな無表情で、ベンチに座る。
 え!? だって!
「さっきそんな事ひとっことも……」
「聞かれなかったから」
 私の言葉をまた遮って、深司くんはさらっとそんな事を言う。
 そりゃ確かに、「花束贈った?」と、「彼女居るか知ってる?」しか聞いてないけど。聞いてないけど、私が何を知りたがってるか、それだけで判るじゃない〜! もう〜!
「昨日本屋に寄って帰ったら、たまたま見かけたんだよね」
「どんな人!? 女の人!?」
 一気に詰め寄る私を見上げて、深司くんは頷く。
「美人!?」
 女の人かどうかを聞いた時は、深司くんなりに素早く反応してくれたけれど、今回は違った。俯いて、少し考え込んで、上目使いで私の表情を確認してから、
「まあ、美人と言えば美人かな」
 お兄ちゃんとまったく同じ曖昧な返事をしてくれた。
 なんなのその、微妙な表現!
「道に迷った人を案内してあげたみたいだった。目的の場所が花屋で、たぶん、案内のお礼にお店の花で花束作ってくれたんじゃないかな。声まで聞こえなかったから確かじゃないけどね」
「あ、もしかして商店街の?」
「うん」
 なるほどね〜。あの店のお姉さん、けっこう綺麗な人なのよね。優しくてカンジいいし。
 お兄ちゃんったら、けっこうちゃっかりしてるなあ。
 って、あれ?
「いつものお姉さんはお店の人なんだから、今更道に迷わないわよね?」
 ???
「そうだね」
「そうだねって」
「橘さんが案内してあげたのは、お婆さんじゃないかな。」
「……はい?」
「あんなに綺麗なお婆さん、なかなか見かけないからね。五十年くらい前は、間違いなく美人だったと思うよ」
 それが、深司くんが知る真実を期待してちょっと腰を浮かせていたみんなが、一斉に元に落ち着いた瞬間だった。
 なによ。曖昧に微笑んだり、言葉を濁してごまかしたのは、単にちょっといいコトしたのが照れくさかっただけ!?
 もう。このネタで少なくとも一週間はからかってやるんだからね!


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テニスの王子様
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