本日の最高気温は三十八度。 確か朝の天気予報ではそう言っていた。おそらくその予想は的中するだろう。違っていたとしても、誤差は一度以内にとどまりそうだ。 しかし計測上は三十八度でも、体感温度はまったく違う。刺すような陽の光を直接浴び、照り返しもそれなりに強いテニスコートの中で運動を続けている身には、軽く四十度を越えているように感じる。 「あっち〜〜〜」 コートが空くのを待っていた菊丸は、汗を滴らせながら、あたりをきょろきょろと見渡していた。 少しでも涼を取るために日影を探しているのだろうが、無駄な努力だ。フェンスの向こうには木も建物もたくさんあるが、休憩時間でもない今、そこまで避難するわけにはいかない。手塚が居たらさぼりと判断されてグラウンド三十周ものだ。その代理を立派に務めている大石でも、二十周は間違いないだろう。 やがて菊丸は陽の光から全身を守る事を諦め、しかし完全に諦めるつもりはないらしく、同じくコートが空くのを待つ河村の足元にしゃがみこんだ。 そんな菊丸を見て、河村は微笑んでいる。見る人間が見れば微笑ましい光景と思えない事もないのだろうが、菊丸が「河村が作り出した影を利用して自分だけ涼んでいる」と理解している身としては、何も気付いていない河村に同情をしてしまう。 いや、河村の事だ。気付いていて、微笑んでいるのかもしれない。 「今日は暑いよね。夏だから毎日暑いけどさ、今日は今年最高じゃないかな」 「そうだよな〜、絶対!」 「だからって、昼前からそんなにへばってるなんて、気合が足りないんじゃない?」 つい先ほど、つばめ返しを決めると共に勝負を決めた不二が、ゆっくりとコートを出ながら言った。今この時、不二がコートを出るとは、菊丸と河村がコートを使うとイコールになるのだが、菊丸は立ち上がろうとしない。 「気合なんて入んねえよ〜。こんなに暑いんだもん」 素直な思いを口にする菊丸に、河村と不二が顔を見合わせて苦笑する。 「確かにね。今日の暑さは、気合を入れるのもばかばかしく思えてくるけど」 「だろ!? だろ!?」 「次、Cコート! 英二、タカさん!」 空いたままのコートを不信に思ったのか、別コートで打ち合っている二年生にアメとムチを振りかざしていた大石が、ふたりの名を呼んだ。 菊丸はしぶしぶ立ち上がる。このままでは部長代理のムチが発動する。そう気が付いたのだろう。 「しょーがねっ、やるか!」 「うーん。でも、気合の抜けた状態で試合ってけっこう危険だよ? 怪我しやすくなるし。水飲んでくるとか、かぶってくるとかしたら?」 「そんくらいじゃ今日の暑さはどうにもなんねーって。だいじょぶだいじょぶ!」 「うーん」 ラケットを肩に担いで気の抜けた笑みを浮かべる菊丸を、納得のいかない表情で見下ろしてから、河村はぽん、と手を叩いた。 一気に表情が明るくなっている。おそらく、河村なりの名案なり秘策なりが浮かんだのだろう。 「あ、そうだ! あれ、どうかな?」 「あれ?」 「うん、ほら、六角中の天根くんがさ、気合入れるために試合中に髪を結んでただろ? ああ言うの、どうかな? 英二の髪の長さなら、結べそうだし」 河村の脈絡があるような無いような提案に、一瞬沈黙を保った菊丸は、 「それって、意味あんの?」 と反論(と言っていいのだろうか)してみたが、 「いいかもね、それ」 不二が間髪入れずに賛成した。 「不二ー! お前、ヒトゴトだからって適当に賛成すんなよー!」 「適当じゃないよ。ほら、前に竜崎先生が言ってたじゃない。朝一で髪を結ぶと後ろに引っ張られる感じで目が覚めて気合が入るって。それと同じ原理だろう? 僕もやってみようかなあ。竜崎先生なら予備のゴム持ってるだろうし」 どうやら不二の中でそれは決定事項らしい。発案者でありながら戸惑う河村や、思いきり嫌そうな顔をする菊丸に気付いているのかいないのか、不二は先生のところへ小走りで駆けていった。 「……って事があってね」 部活終了後、思う事があったらしい河村は、今日の成り行きを知らない大石に事を説明していた。 「ははあ、なるほど。だから英二や不二が髪を結んでいたのか。突然女の子みたいになってたから、驚いて吹き出しそうになったんだけど……少なくとも英二には効果があったみたいだな。昼前くらいから見違えるようなプレイになったし」 河村は大石から目を反らし、俯いた。 「うん。それなんだ、問題なのは」 「問題?」 大石は眉を寄せ、真摯な顔付きで河村を見上げる。 気分屋の菊丸が簡単に気合を入れる方法を編み出したのだとすれば、それはチームにとって、中でもダブルスの相方である大石にとっては、問題どころか歓迎すべき事のはずだったのだが。 「英二は明日からも暑かったらやろうって言っててさ」 「うん、それで?」 「俺はラケット持つとああだし、あんまり気にならないんだけど……他の英二と対戦したみんなは、英二を見て逆に気合が抜けちゃっててさ。荒井なんて試合開始からダブルフォルト三連発で、それっきりちょっと荒れてたし……」 「ああ……」 吹き出しそうになったと宣言済みの大石は、落ちこんだ河村の言葉を否定してやる事もできず、結果俺は、俯いたふたりの並んだ背中を見守る事になった。 「明日、さりげなくやめさせるようにしてみるよ」 「うん。ごめんね、大石」 哀愁漂う背中とは、こう言うものなのかもしれないな。 |