あと10分

 夏休みで、授業はもちろん休みだし、お盆休みのど真ん中だから部活やってんのも全国大会を控えたテニス部だけだ。
 だからしんと静まりかえった校舎の中、屋上に続く階段の踊場で、ゼエハアと俺たちが息をする音がやたらよく響いた。
「俺たち……もしかしてハメられたんじゃねえか?」
 目を閉じて、耳を澄まして、バネさんは言う。
 俺はしばらくバネさんの横顔を無言で見つめてから答えた。
「そうかもしれない」
 けど、そうだとしても。
 俺はバネさんの腕の時計をちらりと覗く。窓から射し込んでくる夕日が反射して文字盤読みづらかったけど、間違いない。
「でも、あと十分で、俺たちの勝ちだ」
 そう俺が言うと、バネさんはにやりと笑って、キッと前を睨んだ。

 はじまりは今から一時間前だ。
「こないだのアレさあ、おもしろかったよね!」
 部活の終了時間が近付いたころ、剣太郎はいつもの笑顔で突然言い出した。
 こないだって、いつだろう。
 アレって、なんだろう。
「こないだのアレじゃあ、何も判らないぞ」
 判らなかったのは俺だけじゃないって、サエさんのおかげで判ってちょっとほっとした。
「ホラ、ビーチバレーの時のアレだよ! イワシ水!」
 剣太郎が大きな声で言った瞬間。
 コートの中の空気がどよんと暗くなって、鋭い視線がいくつも、剣太郎を刺す。剣太郎を睨んだのは、俺もなんだけど。
 でも剣太郎は睨まれているのに気付いていないみたいに、平然と笑ってた。さすが。
「いやあ、アレはおもしろくも何ともないぞ?」
 サエさんはいつも通り爽やかに笑ってたけど、なんかちょっと強張ってた。たぶん、思い出したくない思い出になってる。サエさんだけじゃないだろうけど。
「えーでもさ、罰ゲームをかけての勝負って、なんかスリルがあって、楽しいよ〜」
『お前は飲んでないから言えるんだ』
 サエさんと、バネさんと、聡さんの声が重なった。
 気持ちは判るけど、みんな、怖い。
「イワシ水は確かにキツかったけどさ、剣太郎の言う事も一理あるよな。賞品とか罰ゲームとかあった方が、白熱するし」
 亮さんがちょっと剣太郎の意見に同意すると、剣太郎の目が輝く。
「でも、イワシ水が待ってると思うと、練習する気失せるぜ、俺は」
「それもそうだ」
「じゃあさ、今練習切り上げて、鬼ごっこしようよ! それならいいでしょ!」
 今思うと、それの何が良かったんだかさっぱりなんだけど。
 多分みんな、いつもよりキツい練習に疲れてて、でもサボる事はできなくて、ちょっと気分転換したかった、んだろうな。
「そう言えば、イワシ水ほど破壊力がなくて、ちゃんと体にもいい特製ドリンクがあるって不二が言ってたなあ。この間レシピ教えてもらったんだ。あれ、罰ゲームにしよう」
 ちょっとした変則ルールは主にサエさんが決めた。
 範囲は学校の敷地内。制限時間は一時間。鬼は最初はひとり。逃げる方はみんなラケット持ってて、ラケット奪われたら、掴まる。
 鬼に掴まったやつは、鬼になる。全員捕まえられなかったら、鬼全員が罰ゲーム。全員つかまっちゃったら、最後に掴まったやつが罰ゲーム。ただし最後まで掴まらなかったやつは、今度みんなからおごってもらえる。
「あれ、俺が鬼か〜」
 じゃんけんで負けたサエさんが、少し悔しそうに呟いた。このルールだと、鬼は最初からおごってもらえないからだ。でもサエさんが作ったルールだから、文句を言うつもりもないらしくて、ってかむしろすごく楽しそうに目が輝き出した。
「よ〜し、じゃあ、全員捕まえてやるぞ」
 サエさんは、手強い。
 でも、俺の少ない小遣いじゃなかなか食えないイチゴチョコパフェスーパーデラックスのために、俺は最後まで逃げ切る事を誓った。
 バネさんも、夏休みの終わりにある花火大会での食べ放題を心に誓ってた。
「じゃ、五十秒したら追いかけるよ〜。用意、スタート!」
 だから、びっくりしたんだ。
 みんなが走り出す中、サエさんのそばを一歩も動かなかった聡さんを見て。

「あいつの判断は、ある意味賢かったよな」
 バネさんが言った「あいつ」が、聡さんの事なのは間違いない。
「うぃ」
 俺は頷いた。
 聡さんは、うん、賢かったのかもしれない。
 サエさんから逃げきるより、サエさんと協力してみんなを掴まえる方が楽だって、あの一瞬で計算、しちまったんだ。
 そんな聡さんとサエさんのペアに、「そっちのがおもしろい!」って、剣太郎はあっさり寝返ったし。
 人のいい樹っちゃんはすっかり騙されちゃったし。
 亮さんも気付けば掴まってて(絶対ワザとだ)。
 気付けば俺たちは、校舎に追いこまれていたんだ。
 でも、あと十分。
 十分逃げきれば、なんとかなる。
 小さな窓から外を覗くと、樹っちゃんと聡さんが昇降口の前で構えているのが見えた。どっちかひとりだったら強行突破できたと思うけど、ふたりはやっぱりキツイな。
 だいたい、その前にサエさんと亮さんと剣太郎が居るわけだし。
「屋上、出られるか?」
「鍵かかってるかも」
「昇って見てこい」
「屋上に出るのは、おっくうだじょ〜」
「無理矢理すぎるんだよ!」
 げし、と後頭部を思いっきり蹴られて、とぼとぼと屋上に続くドアの前に立ったその時、
「居たぞ!」
 階段を駆け上る二人分の足音と、亮さんの声が聞こえた。亮さんの後ろにいるのは、剣太郎だ!
「ダビ、早くしろ!」
「え、あ、えっと……」
 ドアノブに手をかけて、回す。けど、回らない。
「バネさん、だめだ、開かない!」
 ちっ、て、バネさんが舌打するのが判った。
 鍵がかかってるけど、これくらい、俺のパワーがあれば、蹴破れないこともないと思う。俺だけじゃだめでも、バネさんと協力すれば。
 でも鬼ごっこで学校のドア壊したら、怒られるよな。出場停止とかになっても困るしな。
「……ダビ!」
「う、うぃ!?」
 なんだバネさん、強行突破か!?
 確かに亮さんと剣太郎なら俺たちに比べて小柄だし力もないし、ラケット奪われずに抜けられるかもしれない。
「許せ!」
 バネさんがなんで突然謝るか、判らなくて、戸惑った。
 バネさんは、俺に振り返る。亮さんと剣太郎に、あ、サエさんも階段昇ってきたんだ。三人に背中を向けて、数段下から俺を見上げて――。
 ひょい、って。後ろ手にラケットを投げた。
「……うぃ?」
 バネさんが手放したラケットは、亮さんがキャッチする。
 何が起こったかまだ理解できなかった俺は、バネさんに一気に迫られて、で、ラケットを力尽くでもぎ取られていた。
 これって。
 まさか。
「……!!」
「はい、これで全員捕まえた。鬼の勝ち!」
 亮さんからバネさんの、バネさんから俺のラケットを受けとって両肩に担いだサエさんが、勝ち誇った笑顔を浮かべる。
 確かに、サエさんたちの勝ちで。
 誰も奢ってもらえなくて。
 そんで、罰ゲームくらうのは……。
「……バネさん!」
「だから、悪かったって!」
 バネさんはてのひら合わせてしきりに謝るけど、謝ってすむ問題じゃないだろ!
「さ、ダビデ。どーぞ!」
 いつの間に準備してあったんだろう。毒々しい、緑色の液体が入ったジョッキを、剣太郎が手にしていた。
 この時の剣太郎の笑顔と、罪悪感たっぷりなバネさんの横顔を、俺はしばらく忘れられないと思う。
 それから、「乾汁」とやらの犯罪的なマズさも。


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テニスの王子様
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