例えばそれが同情でも…

 橘さんがここに居るから、俺たちの今がある。
 だから橘さんがここに居る事そのものに、疑問を覚えた事なんてない。橘さんが居る事は、最低必要条件だからね。
 でも、だからって、考えた事がないわけじゃないんだ。
「橘さん」
 橘さんは耳がいいんだろうか。俺はよくみんなに「聞き取りにくい」とか「もっとハッキリしゃべれよ」とかよく言われるけれど(そしてその度にぼやき返して黙らせているけれど)、橘さんは必ず振り返ってくれる。
「どうした、深司」
 振り返った橘さんが見せてくれた、力強い微笑み。
 それを俺は、凍らせた。
「どうして橘さんはここに居るんですか」
 橘さんが目を見開いたのは、俺の質問の意味が判らなくて戸惑ったのか、俺がそんな事を聞いた事に驚いたからなのか、この時俺には判らなかった。
 だけど橘さんが、すぐにまた微笑みを取り戻して、
「居ちゃいけねえのか?」
 って聞いてくるから、ああ、意味は通じてるんだなって判ったよ。
「まさか。居てくれないと困ります。けど」
「けど?」
「橘さんがここを選ばなければならない理由はないと思います。実力も実績もあるんだから、もっと設備の整った名門校を選ぶのが普通です。だから……俺たちとテニスしている理由が判りません」
 思っているのは俺だけじゃない。
 みんな、心のどこかでは考えている事だと思う。いや、神尾とか内村あたりは怪しいけど。
 それでも誰も聞かないのは――答えが怖いから、だ。きっと。
「例えば、それが」
 俺だって、少し怖いような気がする。そう言ったら、みんな驚くか笑うだろうけれど。
「同情でも……構わないですよ、俺は」
 あの頃は。
 橘さんが俺たちの前に現れる前は、同情なんてまっぴらだと思った。
 不特定多数の人間に可哀想だと思われたところで、俺たちはけして救われない。むしろ、一番迷惑な存在だと思ってた。俺たちをけなすやつら、虐げるヤツら、見て見ぬフリをするヤツらに対してするように、文句をつける事も報復する事もできなかったから、苛立ちが増すばかりで。
 でも、橘さんは違う。
 理由なんてなんでもよかった。俺たちが可哀想だから俺たちと居てくれるって言うのなら、俺はもっともっと可哀想な人間になってもいい。いや、なりたい。
「同情なんてしてないさ」
 少し間を開けて、穏やかに細めた眼差しを俺に向けて、橘さんはきっぱりと言い切る。
「少なくとも、お前たちには、な」
 じゃあ一体誰に、と聞き返しそうになって、俺は必死で言葉を飲み込んだ。
 きっと聞いてはいけない事、聞いて欲しくない事なんだろう。橘さんの表情を見て、なんとなくそう感じ取ったからだ。
「俺はお前みたいに、何でもかんでも小難しい事を考えて行動してるわけじゃねえからなあ。理由、って言われても……」
 俺、そんなに何でもかんでも考えこんでるかな。しかも、小難しいとか言われちゃってるんだけど。
 少し考えてみて、たまたま視界の隅に神尾が映ったから、ああ、そうかも、って納得してみた。
「お前たちとテニスをするのが楽しいから、じゃあ駄目なのか?」
「駄目じゃないです」
「台詞と表情がちぐはぐだぞ」
 言われて、俺は自分の顔を触ってみる。
 そうかな。表情、特に変えてないと思うんだけど。
「そうだな、あとは」
 橘さんは少し考えこんで、それから照れくさそうに笑って、
「恥ずかしくないテニスができるから、かもしれないな」
 そう言った。
「誰に、ですか」
 ためらう間もなく、俺は反射的にそう聞いてしまっていた。聞いてから慌てて橘さんの顔色を伺って、気付かれないようにほっと胸を撫で下ろす。
 聞いてはいけない事ではなかったみたいだ。
 でも、橘さんは答えてくれなかった。
「誰にだろうな」
 そうやって曖昧な言葉を残すだけで。


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テニスの王子様
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