「ふふふふ〜ん」
 今日の千石さんのテンションは、いつもより五割増高かった気がする。いや、休日かつ朝から部活の日のテンションは、いつも低めからはじまるから、八割増くらいかもしれない。
「ふふ〜ん」
 鼻歌を歌いつつ、スキップしながら部室に入ってくる千石さんに「どうしてそんなに機嫌がいいんだ?(いいんですか?)」と聞く部員はひとりも居なかった。
 こう言う光景はしょっちゅうで、以前南部長が「触らぬ神に祟りなしって言うだろ」と説明していたけれど、「じゃあ千石さんは神なんですかね?」と真面目な顔で聞いてみたら、南部長は苦笑いした。「触らぬエースに祟りなし、だ」と真面目に言い直していたのが妙に印象深い。
 確かに、テンションのいい千石さんは、怖い。怖いと言うか、何が起こるか判らない。こっちまで愉快になる事もあれば、気力のすべてを吸い取られる事もある。
「やあ、今日もいい天気だね! 地味’s!」
 いつもなら『地味’sって言うな!』と速攻のツッコミが入るところだけれど、それがない。南部長と東方さんは、あからさまに千石さんを無視していた。
「やーもう聞いてくれよ地味’s! 俺さ、昨日の練習でけっこう疲れてたみたいなんだよね! それでうっかり、リビングのソファで寝ちゃったんだよ!」
 誰も答えてないのに強引に話を進めるんですね。さすがです千石さん。
 俺は、こうして人と距離をとる事を得意としている自分が誇らしくなります。そして、俺とは逆で距離を取るのが下手な南部長や東方さんに同情します。
 いや、これは「距離を詰めるのが上手い」って長所にもなるから、同情する事はないか。
「あれ、今日の地味’sノリ悪いなあ!」
 いつもですよ、千石さん。
「ま、いっか!」
 いいんですか……。
 部室中の視線が、南部長と東方さんに集まった。ふたりがその視線に同情の意味がこもっている事に気付かないわけがなく、少し悲しそうに肩を落としていた。
「そんでね、朝起きたらビックリ! 犯人は姉ちゃんみたいなんだけどさ〜」
 千石さんはバッグをおろす事さえしていないのに、何を思ったのか、突然靴を脱いだ。
 ……靴?
 南部長と東方さん、それから他の部員が何人か(もちろん俺も)が、千石さんの脱いだモノに視線を落とした。
 いつもなら、千石さんはスニーカーを履いている。そのスニーカーで、練習も試合もしている。
 でも今日は、スニーカーも靴下も履いていなかった。履いていたのは……ビーチサンダル?
「ほら、すごいっしょ〜!」
 千石さんは椅子に座って、ビーチサンダルを脱いだ両足をどんとテーブルの上に乗せた。
 特に観察したいとも思わないごく一般的中学生男子の足(オプション:靴下焼け)に、ちっともそぐわないカラフルな色合い。
「俺が寝てる間にイタズラしたらしいんだよね〜。ほら、こっちがテニス部のウェアで、こっちがウチの制服になってんの! 細かいよね〜可愛いよね〜」
 右足の爪は、緑色にオレンジのライン(あの……なんて説明すればいいんだろう。「く」と「くの逆」みたいな)。左足の爪は、真っ白で真ん中にブルーの直線。
 確かに、ウチのウェアとウチの制服だ。可愛いかはともかく(緑の爪とか真っ白な爪とか、むしろブキミな気がする)、細かい。
「朝起きて爆笑してさ! みんなに見せてやろうと思って!」
 東方さんは、千石さんのテンションの高さが悪影響を与えるようなものじゃないと判って、ほっとしたようだった。「へ〜、すごいな」なんてのんきな口調で、千石さんの足の爪をまじまじと見ている。珍獣を見るような目で。
 対して南部長は、千石さんの足でなく、転がったビーサンを見下ろしたまま。
「……で?」
「ん? なにさ、南」
「お前、今日、どうやって部活すんの?」
 南部長のツッコミに、千石さんの笑顔が固まった。
「うわ! ホントだ! ビーサンじゃテニスできないじゃん! いやできない事もないけど、辛いよね!?」
「そりゃそうだろうな。ここぞとばかりにお前の足元ばっか狙ってやるぜ」
「痛いって! たいへん! 俺一回家に帰んね! ちゃんと一回来たから、遅刻にしないでね!」
 言い捨てるようにそれだけ残して、千石さんは素早くビーチサンダルを履いて、部室を飛び出して行った。
 奇妙な賑やかさがあった部室に突然やってきた沈黙。
 南部長はふるふると拳をふるわせて、床に視線を落としていた。
「なんで……うちのエースはあんなにバカなんだろうな……」
 囁くような嘆きは、静まりかえる部室に、驚くほど響き渡った。
 まあ、それは、今更どうしようもない事ですよね。
 あんまり可哀想なので、口に出しては言えないですが。


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テニスの王子様
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