買ってはいけない

「欲しい」と言う気持ちと、「買ってはいけない」と言う気持ちが戦う石田を見る事は滅多にない。
 それはこいつが一般中学生男子と比較するとびっくりするほど物欲がないからで、欲しいと思ったものをそのまま買ってしまってもなんの問題もないヤツだからだ。ラケットとかシューズとかテニス関連のアイテムは普通に欲しがるけど、まあそれは「買ってはいけない」っつうより「(小遣いが安いから)買えない」だしな。
 まあそう言うわけで、一冊の本を凝視しながら買うか買わないかを悩むなんてレアな様子を見せる石田を横目に、俺は適当な雑誌を立読みしていた。俺は元々買う気はないから(今月はもうピンチなんだ)な。
「いつまで悩んでんだ」
「う〜ん……」
 そんなに欲しいなら買っちまえばいいのに、って言うのは簡単だけどなあ。小遣い日が一週間後で、ここで本を買ったら明日からジュース一本も買えなくなるヤツにそれを言うのは酷だよな。
 ま、同情はしねえけど。こいつが珍しく財布の中身をピンチにした理由は、どうせ杏ちゃんとのデートとかだろ。ひとりものの僻みで嫌がらせしないだけ、俺は優しいヤツだぜほんとに。
 そんなふうに石田観察をしているうちに、大して読むところもなかった雑誌を読み終えちまった。仕方なく、隣にあった雑誌を手にとってみる。
「こんなところで会うなんて珍しいな」
 表紙を開いたところで、背後から声がかかる。
 俺は即座に雑誌を置いて、振り返った。
「橘さん!」
「今日はもう部活は終わったのか?」
「はい。明日練習試合があるんで、少し早めに」
「そうか」
 納得したように頷いて、橘さんは視線を巡らせる。
「橘さんはどうしたんですか?」
「詳しく話すと長くなるから要約するが、杏に頼まれた本を買いに来た」
 杏ちゃんって、すごいよな。俺だったら絶対橘さんにおつかいなんて頼めないけど。普段でもだけど、今は特に、受験を目前に控えてるのに。
 まあ話すと長い部分に何か色々あるのかもしれないから、言うのやめとくか。
「石田も来てたのか」
 俺が何も言えないでいる間に、本屋の中を巡った橘さんの視線が、石田を捕えていた。
「はい。と言うか、俺が付き合わされてるんですけどね」
 橘さんはゆっくりと石田に近付いていく。俺もそろそろ立読みに飽きたところだったから、橘さんについていった。
 さっきから少しも悩みが解消していないらしい、眉間に深い皺を刻んだ石田は、橘さんが声をかけるまで近付く俺たちに気付きもしなかった。
「石田」
「うわっ」
 小さく声を出して驚いて、俺たちを見下ろす石田。
「あ、橘さん。こんばんは」
「おう。どうした、難しい顔して」
「いえ、大した事じゃないんですけど」
 石田が笑ってごまかすと(確かに大した事じゃないから嘘ついてるわけじゃねえな)、橘さんはそれ以上聞く気はないらしい。視線を石田から、棚の方に移した。
「橘さん、本買いにきたんですか?」
「まあな。俺のじゃねえが」
 言いながら、橘さんは一冊の本を手に取る。
「え?」
 石田はまたまた驚いて、橘さんの手の中を凝視した。
 そりゃそうだ。橘さんの手の中にある本は、さっきまで石田が凝視していた本だったんだからな。
「けっこう高ぇな」
 裏表紙見て値段チェックして、なんか文句言ってる。金出すのは杏ちゃんなんだし、そこ、橘さんが気にするところじゃない気がするけど、まあいいか。
「橘さん、それ、読むんですか?」
「……暇があったら読むかもしれんが判らん。これは杏のだ」
「あ――」
 橘さんは本を片手にレジに向かおうとする。
 一瞬とまどった石田は、橘さんの肩をがっしり掴んで引き止めた。
「なんだ」
「あ、いえ、その、俺もその本買おうと思ってたんで。橘さんが言う通りけっこう高いし、なんなら、俺が買うやつ、貸しましょうか? とか思ってみたんですけど」
 突然の石田の提案に、橘さんは少しだけ考え込んで、
「あいつもすぐに読むわけじゃなさそうだしな。頼めるか?」
 微笑んでそう答えた。
「はい!」
 石田が笑って元気良く頷くと、橘さんは本を元あった場所に戻す。ちらっと時計を見て、「じゃあ帰るか」と呟くと、俺たちに向き直った。
「お前たちも気を付けて帰れよ。それから、明日の試合がんばれ」
『はい!』
 力強く答えると、橘さんは軽く手を上げて、本屋から去っていく。
 俺たちは背中が見えなくなるまで手を振って、見えなくなったら、俺は石田に振り返った。
「以外と見栄っ張りっつうか、健気だな、お前」
「……うるさいぞ」


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テニスの王子様
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