運命の選択

 どこか遠くを見上げて、睨みつけているようで。
 その時たまたま目に入った、数メートル先に立つ深司の横顔が、妙に印象的だった。
 俺は深司が見ている方向を見上げる。そこにあるのは創立五十年を過ぎた古びた校舎だけで、普段あまり感情を剥き出しにしない深司が眉間に皺を寄せてまで睨みつけるようなものがあるとは思えなかった。
「何を見てるの?」
 少し距離があるから、少し声を大きめにして、聞く。
「別に」
 俺の声に気付いた深司は、俺の方に向き直って、ぶっきらぼうにそう言った。
「あいつ、さっきからずっとこっちを見てるからさ。不愉快だと思ってね」
 更に不機嫌な言葉を重ねて、深司は歩き去る。そっちには水道があるから、水を飲むのか、顔を洗うのかするのかもしれない。
 あいつって……誰だろ。
 俺はもう一度、深司が睨んでいた方向を見上げた。
 さっきの俺は深司が何を見ているか判らなかったから、大きく校舎として捕えていた。けど、「あいつ」って言っているって事は、深司が見ていたのは校舎じゃなくて、人ひとりって事だ。
 そう判ってから見てみれば、深司が睨んでいた方向にある一年何組かの教室に、窓際に立つ人影があるのが判った。
「どうした? また深司に何か言われたか?」
 気にするなよ、と言いたげに、桜井がぽん、と俺の肩を叩く。
「そうじゃないよ」
 確かに、ときどき食らう深司のぼやきに、疲れたり悲しくなったりする事もあるけど、今はそうじゃない。特別ぼやかれたわけじゃないし。
「深司がさ、あいつがさっきからずっとこっちを見てて不愉快だって言うから。そんなにテニスに興味があるのかな」
 それとも、一ヶ月前に校内中を騒がした暴力テニス部に、ひやかしじみた興味を抱いてこっちを見てるんだろうか。
 俺が指をさすと、桜井は「あれ、うちのクラスじゃねえか」と呟きながら俺と同じ場所を見上げて、瞬時に表情を硬直させた。
 学ラン着てるから男子だなってのは俺にも判ったけど、とても人の顔の判別ができる距離じゃない。でもクラスメイトだし、桜井には誰だか判ったのかな。
「不愉快か。深司だったらそう言うかもな」
 視線を反らして、桜井は深いため息を吐く。
「そうなの? ってか、あいつ、誰? 俺も知ってる?」
「覚えてないんじゃないか?」
 って事は。
「会った事はあるやつなんだ」
「まあな。俺もお前も深司も、石田もアキラも内村も」
 桜井はそれ以上詳しい説明をしようとはしなかったけれど、その名前の羅列で、窓際の彼の正体がなんとなく判ってしまった。もちろん誰だかは判別つかなかったんだけど――それだけで俺が感付くって判ってて、桜井は詳しく話そうとしなかったんだろうな。
 あんまり詳しく話したい事じゃないもんね。
「桜井は、どう思う?」
 俺が聞くと、桜井は困ったように笑った。
「ん〜……たぶん、お前と深司の間くらいの事、考えてるな」
「俺?」
「可哀想だとか思ってるだろ、お前。あいつの事」
 言われて、どきりとした。
 可哀想。うん、そうだ。きっと俺はそう思ってる。
 たとえば、橘さんがあと一年、ううん、あと半年、早く不動峰に来ていたら、あいつはきっと今、ここに居た。
 上手いか下手かは判らないけど、一緒に楽しく、テニスをしていたんだろうな。もしかしたら練習のきつさにやめていったかもしれないけど。
 でもあいつは、ここには居ない。
「可哀想だとは思う。でも、お前みたいに純粋にあいつの事を思ってじゃねえよ。なんつうか……優越感みたいなのが、ある」
「桜井……」
「あいつはひと月で諦める事を決めた。俺たちは半年間、諦めなかった。それが今のあいつと俺たちとの違いだろ。当然っちゃあ、当然の結果なんだ。今のあいつと俺たちの居場所が、こんなにも違うのは」
 今、窓際からテニスコートを見下ろす彼が、俺たちを羨ましがっているのなら。彼の胸の中にあるのが、後悔なんだとしたら。
 彼は半年前に間違った選択をしてしまったって事だ。
「あの頃は……やめるのが一番いい選択だったと思っても、しょうがないよ。だから俺たちだって、やめていくやつを引きとめなかったんじゃないか」
 俺だって、何度やめようかって、考えたし。
 そんな事を思い出しながら言うと、桜井も頷く。
「そうだな。俺もそう思ってる。だから深司みてーに、不愉快だって割りきれないんだよ。橘さんがくるのがあともう少し遅かったら、俺があそこに居たかもしれない、ってな」
 うん、そう、俺も。
 たぶん俺は、桜井よりもその考えが強い。
「でも俺は残るって選択をしたし、お前も残るって選択をしたんだ。だから――なんつうか、上手く言えねえけど、だから、俺たちにはここでテニスをやる資格っつうか、権利があるわけで」
 だから、窓際の彼には、その権利がない。
「やっぱり、可哀想だ」
「まあな。でも、橘さんがこなかったら、可哀想だって思われたのは、俺たちの方だぜ、きっと」
「うん」
 世間的にどっちが正しい選択だったのかとか、はっきり答えが出せるわけもないけど。
 俺は……俺たちは今になってようやく、自分の選択が誇らしいと思えるようになったんだ。
「良かった」
「ん?」
「やめないで、本当に良かった」
「……だな」
 俺の、ひとりごとに似た呟きに、桜井が力強く答えた。
「休憩終わりだ! 集まれ!」
 橘さんの声がコート中に響き渡る。ほら行くぞ、と言いたげに、桜井が俺の肩を叩いて、橘さんに向けて走り出した。
 俺は走り出す前に一瞬だけ振り返る。
 今もまだ窓際からテニスコートを見下ろす、一ヶ月間だけ仲間だった彼は、二度とこのコートに現れる事はないんだろう。
 そんな事を考えていたら、ものすごく泣きたい気持ちになったから、俺はすべてを振り切るように、背中を向けて走り出していた。


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テニスの王子様
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