ねぇ、知ってる?

 周りへのやりすぎなくらいの気遣いや下準備の細かさこそが大石の凄いところなんだろう。
 注意事項がびっしり書きこまれた、ツッコミどころがまるでない、完璧とも言える「合宿のしおり」の原本を見ながら、僕は心底そう思う。あえてツッコミどころを上げるなら、中学生男子に対してあまりに過保護なところかな。巻末の持ち物のチェック欄(合宿に必要そうな荷物がずらりと並べられていて、その横にチェックを入れるマスがある)とか、「おやつは五百円まで」とか、どうなんだろう?
 僕は大石にひとことくらい言っておこうと思い顔を上げて――たまたまその時桃が目に入ったものだから、何も言わない事にした。チェック欄があっても桃は忘れ物をするだろう。けれどこれがあればずいぶん減るに違いない。そして何より、こんな注意書きを書いたところでおやつを五百円以内におさめるとは到底思えないけれど、注意書きを書かなかったら、とんでもない量を買いこんできそうだから。
 それによく考えてみれば、今大石は部室の中に居ないわけだし。
「って事だからさー、頼む、不二! 手伝ってよ!」
 僕の目の前で、てのひらを合わせつつ深々と頭を下げる英二。
「え?」
「なんだよー、聞いてなかったのかよ!」
 しまったなあ。つい読みふけっちゃったよ。英二の言い訳を聞いているよりその方がおもしろかったからね。
「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてて」
「だからー、そのしおりをコピーして、製本して、明日の朝までに大石に渡さないといけないの! そう約束しちゃったからさ!」
「珍しいね。大石って、そこまで自分でやりそうなのに、よりによって英二に頼んだんだ」
「いや、それは、まあ、色々あって」
 ふうん、なるほど。
 つまり、色々大変そうな部長代理の仕事を少しでも手伝おうと決意した英二は、自分から言い出してしおりのコピーから製本までを請け負いながら、今の今まですっかり忘れてしまっていたわけだ。
 それで「できなかったー!」なんて言えないよなあ。カッコ悪いと言うより、人として最低だよね。手伝うフリして負担を増やすなんて。
「いいよ、どうせ暇だし」
「サンキュー! んじゃ、今から印刷室に突撃ー!」
 いつも通りのノリで、英二は僕の背中を押す。
 まったく。少しは反省してるのかな。

 大きな印刷機を目の前にして、さっそく印刷をはじめようとしたその瞬間、僕は重大な事に気が付いた。
「ねえ、英二」
「何?」
「何部刷るの?」
「……!」
 英二は無表情を装ってはいたけれど、明らかに慌てていた。
 聞いていないのか。あるいは、聞いたけれど忘れたのか。
「お、俺、聞いてくる、大石に! 二組で作業するって言ってたし!」
 英二は今にも印刷室を飛び出そうとする。
「時間もったいないから、とりあえず十部刷っとくよ」
「ああ、うん、頼んだ! 刷ったら、それでとめといて!」
 去りぎわに僕の背後を指差して、英二は今度こそ部屋を飛び出していった。
 確かこれ、英二が頼まれた仕事だよね。
 ほとんど僕がやるってどう言う事だろう。

 刷り上がった十部をクリップでとめ終えたけれど、それでも英二は戻ってこない。
 全部置き去りにして帰っちゃおうかなあ、と考え始めたころに、僕の携帯が鳴った。
「何部か判った?」
 電話の主はもちろん英二で、階が違う上に逆方向にある三年二組の教室から戻ってくるのが面倒だったらしい。
 だったらはじめから大石に電話すれば良かったのに。判っていて忠告してあげなかった僕も僕だけど。
『おう、十部でいいってさ! んじゃ、それ二組の教室に持ってきてよ!』
「……」
 言いたい事(しかもかなり自分勝手な)だけ言って電話を切る英二って、かなり大物だよね。
 僕は数秒自分の携帯を眺めて、諦めまじりのため息を吐いて、印刷室を出る。片手にはもちろん、刷り上がった十部のしおり。
 階段を昇って、長い廊下を歩いて。その階で唯一電気が点いている三年二組の教室まで、僕はひとり歩いていた。
 足音が聞こえたのかな。僕が四組の前を通りすぎて、三組の前にさしかかろうとした瞬間、英二がひょこりと顔を覗かせる。
「おーう、不二、あんがとなー」
「けっきょく英二は何ひとつやらなかったよね」
「まーまー、そう言うなって」
 両手を差し出した英二に、僕が左手に抱えた十部のしおりをぽす、と渡すと、英二は一瞬にして表情を変えた。
「なんだこれ」
「だから、合宿のしおりだよ」
「そーじゃなくて、なんでクリップでとまってんだよー。俺、ホチキスでって頼んだじゃん!」
「……頼まれてないけど?」
 言い返しながら、僕は記憶を呼び起こす。
 あの時、「それでとめといて」と言った英二が指し示した方向にあったのは、間違いなくクリップ入れだった。だから僕は印刷されたものをクリップでとめたんだ。
「頼んだよ! ホチキス指差してさ、『それでとめといて』ってさ!」
 けれど。
 クリップ入れよりも更に先に、三十センチくらい離れた場所に、ホチキスがあったような気もする。言われてみれば。
「ったくもー、しょうがないなあ」
 この場合、注意力が足りなかった僕にも多少(本当に少し。一パーセントくらい)の非があるのかもしれないと思いつつ、理不尽だなあって思う気持ちの方が強いんだよ。当然だよね?
「ねぇ、知ってる? 英二」
 僕は僕に背中を向けて二組の教室に入ろうとする英二を呼びとめた。
「これはアメリカで本当にあった、けっこう有名な話なんだけど」
「……にゃんで突然アメリカの話になんのさ」
「まあまあ聞いてよ。理由は忘れたけど、猫の体が濡れていてさ、飼い主が乾かそうとしたわけ」
「ふーん」
「それで飼い主はね、何を思ったか、電子レンジで猫を温めたんだよ」
 英二の顔が強張る。顔だけじゃない、全身だ。手に持っているしおりが落ちなかったのが不思議なくらい。
「当然猫は死んでしまってさ。その後飼い主は、電子レンジを作ったメーカーを訴えたわけ。『猫をあっためたらいけない』なんて、説明書に書いてなかった! ってね」
「そんなん、書いてなくたってダメだって判んじゃん!」
 本当だよね。僕もそう思うけどさ。
「けどね、裁判は飼い主が勝っちゃったんだよ。メーカーの説明不足がいけなかった、って事になったわけ」
「……」
 そこで英二はようやく、僕の言いたい事を判ってくれたみたいだ。口をへの字にして、大きな目でじっと僕を見る。
 僕がにっこりと微笑むと、
「……ごめんなさい」
 ばつが悪そうに、縮こまりながら謝罪の言葉を口にした。


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テニスの王子様
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