一生に一度のお願い

 十分間の休み時間を知らせるチャイムがなり終わったと同時に、ドタドタと廊下を走る音がして、後ろのドアがガラリと開く。
 教室中の視線と一緒に、俺もそっちを見た。身長を理由にいつも席は一番後ろだから、真横を見れば問題のドア付近を見れたわけだけど――。
「……アキラ?」
 俺がそこに立っていた人物の名前を呼んだ。
 必死の形相って、こう言うのの事を言うんだろう。アキラは真剣な眼差しで座っている俺を見下ろして、ずかずかと教室の中に踏み込んでくる。
「お前を男と見込んでだな、石田。一生に一度のお願いだ!」
 てのひらを合わせて、拝むように頭を下げるアキラ。
「な、なんなんだよ、突然!」
 アキラの「お願い」とか「頼み」なんてしょっちゅうだけど、「一生に一度のお願い」と言われると、急に物々しいものに思えてくる。
 去年の夏休みの終わり、宿題にまったく手をつけてないアキラは、同じ文句で俺に「お願い」をしたわけだから、よく考えてみると物々しくもなんともないんだけれど。
「こんな事、人に頼む事じゃねーって判ってるんだけどよ」
「だから、なんだよ」
「……リコーダー、貸してくれ」
 静まりかえった空気に、ぴき、と音を立ててひびが入ったような、そんな感じだった。
 色々言いたい事はあった。リコーダーって貸し借りするものじゃないんじゃないか(やっぱり他人が口をつけるのって嫌だよな)、とか、リコーダーなんかに一生に一度のお願いを使うのはどうなんだ、とか。
 けれどアキラの目は思いの他真剣で、そんな事ははじめから判っているんだろうなって思わせた。
「悪いけど、家にしかない。うちのクラス、リコーダー使うの次の授業からだから、まだ持ってこなくていいと思って」
 理由とか色々気になったけど、アキラはとても急いでいるようだったから、アキラが求めている答えだけを返す事にした。結果的には、求めていない答えになってしまったけれど。
 アキラはものすごく衝撃を受けた顔をして、その場にしゃがみこむ。頭を抱えて、本当に困ってるみたいだ。
「ど、どうしたんだよ。そんなに落ち込んで」
 アキラと同じクラスになった事はないから、詳しい事は判らないけど、アキラって何て言うか――忘れ物しても「ま、いっか!」って流せる奴だと思ってた。そんなに授業を真面目に受けてなさそうと言うか。
「リコーダーがないと……大変な事になるんだよ」
「大変な事って?」
「放課後、バケツ持って廊下に立たされちまう!」
 ……え?
 ここ、笑うところかな? ツッコむところか?
 俺は内心オロオロしていたんだけど、アキラは真面目な顔のままだし、どうしていいのか判らなくて、次のアキラの言葉を黙って待つ事にする。
「俺があんまり忘れものが多いからって、担任のヤツがよ、次忘れ物したら、廊下に立たせるとか言いやがったんだ! しかも両手に水が入ったバケツのオプション付き!」
「……はあ?」
「廊下に立ってろなんて、今時カツオやのび太くらいしか受けないような罰じゃねえか! いい笑いモンだ! ぜってー、やだね!」
 熱く語って息が切れたのか、神尾はぜえはあと肩で息をする。
 俺は何となく、自分が廊下に立たされて、バケツを持たされてるところを想像してみて、いたたまれない気持ちになった。通りすがりの同級生たちに、くすくす笑われるのかと思うと、確かに辛い。特に俺だと顔を隠しても誰だかばれるしなあ。
「あれ? でも最近、カツオものび太も廊下立たされたりしてなくないか? 俺、あんまり見ないからよく判らないけど」
「……俺はカツオやのび太以下かよ!」
 あ、しまった。
 アキラを余計慌てさせちまったよ。
 困ったなあ。自業自得と言ったらそれまでなんだけど、さすがにかわいそうだ。アキラの担任も忘れ物を防ぐための苦肉の策だったんだろうけど……。
 うーん。確か森や桜井や内村もまだだって言ってたしなあ。
「あ」
 そう言えば。
「深司なら、持ってるんじゃないか? あいつ昨日リコーダー持ってたからさ。昨日音楽があったんだろうし、ああ言うのって一回持ってきたら置きっぱなしだろ? だから……」
「……深司か!」
 アキラの顔がぱっと明るく輝く。
 軽快な動きで立ち上がり、そのままものすごいスピードで走り去ってしまった。
 大丈夫かな。
 俺はちょっと心配だったから、廊下に出て、アキラのあとを追いかけていった。

「ない」
 俺が深司のクラスに到着した瞬間、冷たい目でアキラを睨みつける深司が、きっぱりとそう言い捨てていた。
 予想通りと言うか、なんと言うか、とりつく島もないってやつだ。
「ないわけねーだろ! お前の机の横にぶら下がってるやつ、なんだよ!」
「なんでもいいだろ。とりあえずリコーダーじゃない」
「どうみてもリコーダーじゃねーか!」
 平然と言い放つ深司と、慌てて反論するアキラ。聞いているだけだとアキラの方が部が悪いけれど、アキラの言う通り、深司の机の横にぶら下がっているのはどこからどう見てもリコーダーだった。
 深司、潔癖そうだからなあ。アキラにしろ誰にしろ、自分のリコーダーを誰かが使うのって、嫌なんだろうな。
 それにしたって、ないって言い張るのは少し無理がある気がするぞ。
「神尾の常識がどうだか知らないけどさ、それで俺の常識まで決め付けるのやめてくれる? 俺の持ち物は俺が一番把握してるに決まってるだろ。俺がリコーダーを持ってないって言ったら持ってないんだよ。判ったらさっさと帰ってよね。ほら、あともう少しでチャイム鳴っちゃうよ。忘れ物するのは問題だけど、それをごまかすために遅刻したりさぼったりするのはもっと問題なんじゃない? あーあ、困るよなあ。神尾の不祥事でテニス部が出場停止とかになったら。橘さん、最後の夏なのになぁ……」
「し、深司。もうそのくらいで」
 可哀想なアキラのために俺がしてやれる事と言ったら、深司のぼやきをとめる努力をする事くらい。
 アキラは悔しそうに唇を噛みながら、横目でちらりと時計を見上げて、音楽室への移動を考えた上でのタイムリミットが迫っている事を確かめた。
「くそっ!」
 アキラは踵を返して走り出す。
 その背中に、妙に哀愁が漂っている。
 冷静に考えれば単なるリコーダーを忘れた中学二年生の背中なんだけどな。


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テニスの王子様
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