勝利を誓おう

 そうする事でここに帰ってきたのだと実感したかったのかもしれない。
 最初のページから素早く部誌をめくる。この早さでは内容を理解する事はできないが、元よりするつもりはなかった。
 約一年前、俺が部長に就任した日が一ページ目となる部誌には、俺と大石の字によって、青学テニス部の一年間が刻まれている。若干大石の字が多いのは気のせいではなく、特に俺が生徒会長に就任した時期は、ほとんどが大石によるものだった。当時大石は、「忙しいんだろ。このくらい任せろよ」と笑いながら俺の手から部誌を奪っていく事が多かったのだ。
 部誌が終わりに近付くにつれ、自分の字が一切見られなくなった。俺が九州に治療に向かってから一ヶ月近くは、すべてが大石の字で綴られている。
 気配りが得意で視野の広い大石らしく、丁寧に細かく記してあった。想像力に富んでいるとはお世辞にも言えないこの俺でさえ、この部誌を読めばその日に何があったのか、容易に想像する事ができる。
「まだ帰ってなかったのか」
 ため息混じりのその声は、今俺が目にしている字の書き手のものだった。
 声がかかるまで気付かなかったとは、よほど静かにドアを開いたのだろうか。それとも俺が部誌に集中しすぎていたのだろうか。
「お前こそ、帰ったはずではなかったのか」
「そうだったんだけどな。何となく、明日が来る前にもう一度ここに来たくて、途中で引き返してきた」
 大石は俺の隣に腰を降ろす。
 右腕に巻かれた包帯から俺が目を反らした事に気付いているのかいないのか、俺の手の中にある部誌を覗き込んだ。
「ああそうだ、手塚に言おうと思ってたんだ。英二のやつが部活を勝手に抜け出したのに、グラウンド走らせなかったんだってな」
「……俺もそこまで鬼ではない」
「鬼だなんて思った事ないよ」
 そう言ってから少しだけ声を上げて笑った大石は、
「ありがとう」
 眼差しは優しいままだが真剣な表情で、突然感謝の言葉を述べた。
 感謝される覚えはない。大石にも、おそらくは菊丸にも。
 突然、大石の字で記された部誌の重みを両手に感じた。本来ならば、この重みを解消できるだけの感謝を、俺が伝えなければならないのだろう。
 それはきっと、言葉だけではすまされないない。
「さっきさ、英二に怒られたよ」
 大石のその発言には、少々驚いた。
 もっとも表情や声に出すほどではなかったため、俺が驚いた事に気付ける人物は限られているだろう――隣に座っている男はその数少ない例外で、俺を僅かに見上げながら驚愕を表情に浮かべている。
「驚くような事言ったかな?」
 申し訳なさそうに目を反らし、頬をかく大石。
 大石の横顔を見下ろしていると、これは驚く事ではないのかもしれないと思えてくる。だがひとつだけ確かな事は、俺がコートから飛び出していく菊丸の背を黙って見送ったのは、大石を叱りつけるためではなかった、と言う事だ。
「じゃあまた驚くかもしれないけどさ。嬉しかったんだ、俺」
「菊丸に怒られる事が……か」
「ああ」
 大石は静かに目を伏せ、壁に背を預ける。天井を仰ぐように。
「八人でがんばってほしいのは本当だし、俺の事を引きずってほしくなかったからお前を巻き込んで一芝居を打ったんだけど……二年近くもペアを組んできた相手に、あっさり『じゃ、俺別のやつと組んでがんばるよ!』とか言われたら、やっぱり落ち込んだと思うから」
「俺ってわがままだなあ」と笑いながら呟く大石に、かける言葉も見つからないでいた俺の肩に、突然重みがかかる。
 俺が手の中の部誌を閉じて傍らに置き、重みがかかった肩を見下ろすと、顔をうずめるように寄りかかる大石が目に入った。
 そうして隠れるようにして、泣いているのかもしれない。だが確かめる術はなかった。確かめる必要も。
「俺はお前を怒ってやれないぞ」
「いいよ別に。だいたい、お前に怒られたら『なんで俺が怒られないとならないんだ』って、腹立ちそうだ」
 ならばどうすればいいと訊ねる前に、大石は続けた。
「手塚に望む事はひとつしかないよ」
 それ以上何も言わなかったのは、俺を試すための謎かけなのだろうか。
 考える余地もなかった。大石がそれを望んでいようといまいと、俺にできる事はただひとつしかないのだから。
「俺は、勝利を誓おう」
「……」
「青学は必ず勝つ」
 俺が言うと、少々の沈黙を乗り越えて、大石は小さく吹き出した。


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テニスの王子様
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