忘れえぬ約束

「菊丸!」
 コートを飛び出そうとした俺を、手塚が呼び止めた。
 練習を途中で抜け出すなんて規律を乱す、とか言うつもりかよ。確かに普段ならダメかもだけど、今、こんな時でも絶対コートに居なきゃならないってなら、規律なんてくそくらえ、だろ。
「うるさいな。グラウンド走れってなら後で走ってやるよ。十周でも二十周でも百周でも!」
 こんだけ言って、それでも俺を呼びとめようってなら、俺、手塚を殴ってたかもしんない。
 でも、手塚も判ってくれたのか、それともちゃんと走ればいいとか思ってんのか判らないけど、それ以上何も言わなかった。
 乾とか、桃とか、海堂とか、おチビとかは、俺に気付かないふりをする。
 不二とタカさんだけは俺を見てたけど、「いってらっしゃい」って目で言ってる。
 今会って何を言いたいのかとか判んねーし、手塚が俺を引きとめたのは、ひとりにしといてやれって意味なのかもしれねーし、どうしたら一番いいのかとか、俺には判んないけど。
 それでも、行かなきゃって思ったんだ。

 いつも騒がしい俺だけど(ちゃんと自覚してるっつうの)、今はやっぱり静かにしないとダメなのかなって気になって、保健室のドアを静かに開ける。でも、どうがんばってもカラカラカラ、って小さな音が鳴っちって、保健室の中にあった人影は、俺に振り返った。
「英二」
 保健の先生、もう帰っちゃったのかな。大石は右手首に湿布を貼って、その上に巻こうとしてるのか、真っ白い包帯を手に持ってる。
「練習はどうしたんだ」
「うん」
「後で手塚にグラウンド三十周って言われるぞ」
「うん」
 俺はもちろん、大石に会いにここに来たわけだけど。
 なんとなく、うん、なんとなく、大石の顔が見辛くて、俯きながら大石に近寄った。そんで、黙って大石の手の中にあった包帯を奪い取る。
「自分の腕じゃ巻き辛いだろ。俺、やってやるから。座れよ」
 そう言うと、大石は「ありがとう」ってすごく優しい声で言って(たぶん、同じだけ優しい顔で笑ってる)、近くにあった椅子に座った。
 やっぱり、頭ん中整理してから来ればよかったかもしんない。今更そんな事思っても遅いけど。
 黙って腕を出してくる大石に、俺は黙って包帯を巻いて、保健室はびっくりするくらい静かだった。まあ、もともと静かじゃないといけない場所なんだけど。
「今まで何も言わなくてすまなかった。怒ってるよな」
 包帯が巻き終わった途端、大石はそう言った。
 俺はちょっとびっくりして、余った包帯を落としそうになって、床につく前に慌てて包帯を拾う。さすが俺。ナイス反射神経&運動神経。
「判んない」
 俺、今、胸ん中モヤモヤしてて、自分でもどんな気持ちなのか判んねーとか思ってたけど。
 そっか。俺、そうだ。怒ってんのかもしれない。
 でもそれは、大石に、じゃなくて。
「手塚は、ずるいよな」
 無意識に、俺がぽつりと呟くと、
「英二……」
 大石は困った顔して俺の名前を呼んだ。
「だってそうだろ!? あん時は、大石の怪我のが手塚の怪我より軽かったじゃんか。でも手塚は、全部大石に押しつけて、九州に療養とか行って完治して帰ってきてさ。その間大石は、全部ひとりでやってて、ゆっくり怪我治す事もできなくて……」
「英二!」
 しかりつける時の厳しい、それでもどこかに温かさと優しさがある声が、俺を黙らせる。
 恐る恐る顔を見てみたら、怒ってはなかった。けど、すごく困った顔してた。
「手塚のせいじゃない」
 判ってるよ。
「それどころか、大丈夫だから任せておけって送り出したのにこんな事になって……手塚には申し訳ないと思っているくらいだ」
 判ってるよ。
 手塚のせいでも、誰のせいでもないから、だから、大石は手塚も、他の誰も、責めたりしないって。
 そんで、知ってるよ。
 俺が大石の名前すら覚えてない頃から、ふたりはずっと全国を夢見てて、俺が大石をライバル視しはじめた時には、ふたりはとっくに全国を目指してたって事。
 だから今のかたちが、大石にとって、できるかぎりで一番いいのかもしんないよ。だから大石は泣きながらも笑ってられて、そんで今、俺だったら考えられないくらい穏やかでいるのかもしんないよ。
 でもさ。
 でもさ。
「俺は?」
 約束したじゃんか。いつもの、あのコンテナの上で。このまま突っ走って、全国大会ナンバー1だって。
「俺との約束は、忘れちまったのかよ」
 あの約束は、俺と大石のふたりだけの約束じゃんか。
 だから俺は待ってたよ。ずっとずっと待ってたんだよ。関東の決勝で、久しぶりにダブルス組めて、すげー嬉しかったんだよ。
 そんで、これから全国だって時に、こんなん。
「忘れるわけ、ないだろ」
 大石は力強い声でそう言ったけど。
 じゃあ、なんで。
 ……なんで。
「すまない。英二。こんなかたちで裏切る事になってしまって」
 謝ってほしかったわけじゃなかった。大石が悪いんじゃないって、頭では判ってるからさ。
 んでも、じゃあどうして欲しいのかって考えたら、何にも考えつかなかった。何にもってわけじゃないけど、全国でもダブルス組んでほしいなんて、無理な事だけだ。
「すまない」
 大石はずっと、そればっかりを繰り返す。
 謝ってほしかったわけじゃなかったけど、でも、大石の「すまない」って声を聞いていると、少しずつ、本当に少しずつ楽になっていく気がしたんだ。
 だから、ごめん、大石。
 もうしばらく、「もういいよ」って、言ってやれそうにない。


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テニスの王子様
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