痺れる

 母親は買い物。父親は仕事。
 部活が終わったばかりの俺が、なんとなくリビングで、ひとりテニス雑誌を読んでいたときだ。
「ただいま」
 玄関が開く音が聞こえたのとほぼ同時に、聞き慣れた声が飛びこんでくる。
 聞き慣れたとは言っても、ここ最近は電話からしか聞いてない声だ。それを突然直接聞く事になって、俺はとても驚いた。
 立ち上がって、玄関に向けて走る。俺が玄関に到着した時、声の主はちょうど靴を脱ぎ終えていたところだった。
「おかえり、淳」
 とりあえず、お決まりの台詞。
「どうして帰って来たんだよ」
「どうして帰って来たんだよって……帰って来ちゃまずい?」
「いやそうじゃなくて、予定では明日だっただろ、帰ってくるの」
「そうだったっけ? でもなんとなく、今日帰ってきたくてさ」
 淳は靴を脱ぐ時に置いたらしい荷物――ラケットの入ったバッグと、その他の荷物が入った大きいバッグ――をその場に置き去りに、のろのろとリビングに向けて歩き出した。
「母さんは?」
「買い物」
「父さんは?」
「まだ帰ってくる時間じゃないだろ」
「そっか……じゃあさ、亮」
「なんだよ」
「喉渇いた」
 言って淳は、さっきまで俺が座っていたふたりがけソファに腰を降ろす。
 麦茶を冷蔵庫から出すくらい自分でやれよな。
 とは思ったけれど、東京から大荷物持って二時間も電車とバスに揺られてたんだから、ぐったりして当然か。しかもこの時間に帰ってきたってのは、夕方まで練習とかあったのかもしれない。
「ほら」
 麦茶の入ったコップを淳の前に置くと、淳は疲れた顔で笑った。
「サンキュー、亮」
「優しいお兄さまに感謝しろよ」
「うん」
 感謝する気があるのかないのか、麦茶を一気にあおった淳は、三秒で空にしたコップを、無言で俺に突き出してきた。
「お前なあ」
 とか言いながら、ため息吐きながら、もう一杯注いでやる俺って偉い兄貴だと思うよ、ほんと。
「そっち。色々大変なのか?」
「まあね。何から何まで六角とは正反対だよ。新設されたばかりの綺麗な校舎。寮生活。近代的な設備。どっちがいいかは判らないけどさ。多分どっちもどっちだよね。あれこれだと言い方悪いな。一長一短?」
 二杯目の麦茶を飲み干して、ようやく渇きが治まったのか、淳は空になったコップをテーブルに預けた。
 俺は自分の分のコップを持って、淳の隣に座る。
「楽しいけど、慣れないことばっかりで……ちょっと、疲れたや」
 淳はふうーっ、と長い息を吐いたけれど、正直な感想を口にはしたけれど、けして弱音とかを吐く気は無いみたいだ。
 多分、本当に、慣れないことばっかりで疲れているけれど、楽しいんだろう。それが伝わってくる。
「だから明日の朝からゆっくり帰って来りゃよかったんだ」
「なんだよさっきから。俺、帰って来て邪魔だった?」
「そうじゃねえって」
 くすくす、と小さく笑って、淳は目を伏せる。
「寝る」
「もうか? そのうち風呂沸かすから、入ってからにしろよ。一番風呂は相変わらず父さんって決まってるだけど――」
 ぼす、と。
 左肩と言うか、左腕と言うか、そのあたりにずっしりとした重み。
 まったく、こいつは。
「部屋、戻って寝ろよ。布団ひいて」
「夕飯食べるから、それまでちょっとだけだし」
「ちょっとだけって、母さん帰って来てから夕飯作るんだぞ。一時間以上かかるだろ」
「んー……」
「それに重い。俺の腕が痺れる」
「いいじゃん、ちょっとだけ、だ……」
 しゃべりながら意識が落ちてしまったのか、淳は言葉の途中で黙りこんだきりだった。覗き込むと両目はしっかり閉じられていて、すでに寝息を立てている。
 向こうでも友達や部活仲間はできてるみたいだけど、やっぱ慣れない環境だ。きっと、自分でやらなければいけないことが、家に居るときよりもたくさんある。
 一日も早く早く家に帰って来て、家族に甘えて、ダラダラしたい気持ちも判らなくもない。
 判らなくもないけど、迷惑かけられるのはこまるんだよなあ。
「ったく、俺は明日も部活なのに、痺れが残ったらどうするんだよ」
 まあ、左腕なら、そんなには影響無いかもしれないから、いいか(こいつまさか、そこまで計算して左側座ったんじゃないだろうな?)。
 俺はなるべく動かないように、置きっぱなしにしていたテニス雑誌を手にとって、続きを読みはじめた。


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テニスの王子様
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