いつでも夢を

 春の暖かい空気に、千石の短い髪が揺れている。元々明るめな色の髪は、春の優しい陽射しに照らされて、いっそう明るい色に輝く。
 視線はまず、薄紅色の雨を降らせる頭上の桜の木に。それから、降りそそぐ花びらに。
 ため息なのか、深呼吸なのか、どっちなのかを判断するのが少し難しい息を吐きながら、千石は目を伏せる。
 それはほんの一瞬。
 開かれた両目は驚くほど真剣で、じっと遠くを見つめた。
 うちのエースは、ときどき、ごくたまに、ものすごく真面目な顔をする。はじめの頃は普段が普段なだけに、一体何があったんだと心配しまくったんだが、二年以上の付き合いの中で段々慣れてきた。
 とりあえず、今の千石は、本気だ。自分の中で何かを、本気で、心に決めているんだろうな。
「南」
 いくつものボールが跳ねる音や、たくさんの掛け声に負けないよう声を張り上げる南の背中に、千石は静かに声をかける。
 とりあえず後輩のフォームの崩れを指摘し終えてから、南は千石に振り返った。
 南も気付いたんだろうな。千石の異変に。
 いつもの南なら「黙ってろ」とか「無駄に声かけんな」とか文句を言っているこの状況で、南は何も言わないで、千石を見下ろしている。
「朝起きてね、学校に一歩ずつ近付きながらさ、俺、思ったんだ」
 千石はすぐそばにあったベンチに腰を降ろして、膝の上で両手の指を軽く絡ませる。
「空気は暖かくて、すごくいい香りがした。花は綺麗で、花じゃなくて雑草でもさ、元気に生えてて、青くて、風は気持ち良かったし」
 ざり、と地面を蹴る音。
 南が一歩、二歩、千石に近付く。
「俺、何やってるんだろう……ってさ」
 両手をしっかり組み合わせて、千石はうなだれる。
 横顔が覗ける俺の位置からは、悔やんでいるような表情が見えるけれど、南の位置からじゃ表情は見えないかもしれない。けれど南は千石の表情を覗こうとはせずに、じっと千石を見下ろすだけだった。
「虚しかったのかな。ちょっと違う気もするけど、そんな感じ。このままじゃダメだって思った」
「……それで?」
「それで……って」
 南の曖昧な問いかけに、千石は言葉を詰まらせる。
 顔を上げて、無表情で見下ろす南と視線を合わせて、それから、少しだけ笑った。
「いつでも夢を見ていられるような、そんな大きな男になりたいって。そう思ったよ」
 千石は少しだけ視線を南からずらした。
 ふたつの目に映るのは、雲がまばらに浮かぶ空。はるか遠く、はるか高み。
 南は何秒かだけ千石の視線の先を目で追った。眩しさに目を伏せて千石に振り返ると、また一歩、二歩、三歩、千石に近付いて、目の前に立つ。
「お前にしては、いい傾向なんじゃないか」
 南は口の端を少しだけ上げて、笑う。
 一瞬驚いた千石が、満面の笑顔。
「南も、そう思――」
「なんて言うと思ったか、俺が!」
 ごん。
 南のげんこつが、千石の脳天に落ちた。
「なんでいきなり殴るかな!」
「うるせえお前の魂胆は見え見えなんだよ俺がうっかり『いいんじゃないか』とか言ったら『やっぱり!? そーだよねー!』なんて浮かれまくってその場で寝るつもりだろ! んで俺が『寝るなよ!』って怒ったら『夢見ていいって言ったじゃん!』とかって反論する気だろ!」
「うっ……!」
 息継ぎをせずに続ける南の反論は全部が全部図星だったようで、千石は表情を歪めながら押し黙った。
 まあな。
 長い付き合いだからな。
 真面目な顔なのか、真面目なフリしてる顔なのか、その区別もつくようになっちゃったよな。
 あと、眠そうな顔もな。
「くっだらねえ事考えたり人の事騙そうとしてねえで、練習しろ、このサボリ魔!」
 ごん。
 もう一度千石にげんこつをくらわせて、南は元の場所に戻っていく。
 背中しか見せない南では意味がないからか、何か訴えたそうな目を、千石は俺に向けた。
 いや、俺を見ても。
「自業自得だろ。ってか、アホだよなお前。判ってたけど」
「……!」
 俺が素直な気持ちを口にすると、千石は力尽きたのかその場に力無く転がった。
 別に、どうでもいいんだが。
 南に蹴り起こされる前に、自力で起きた方が懸命だぞ。


お題
テニスの王子様
トップ