抱きしめたい

 元々口数の多い方じゃあないと思うけど、今日は特別少ないね、なんて。
 冗談でもそんな事言えない感じ。空気がピリピリしてる。
 本人にそんな自覚があるのかないのか判らないけれど。いつも以上に鋭い目付きでテレビの方向を見ながら、ぜんぜんテレビなんて見てないって事くらいは、自覚してるのかな。いつもよりずいぶんボリューム大きいけど、それに気付いて直そうとしてないあたり、聴いてすらないみたいだし。
 私はテーブルの上に置かれてるリモコンを手にとって、ボリュームを下げる。でも、ほら、ぜんぜん気付かない。
 ずっとずっと考えてる。テレビを見ているフリをしながら、お兄ちゃんが見てるのは、ぜんぜん別のところ。
 今日の昼間、ほんの数分、ううん、もしかしたら数十秒だったかもしれない、あの再会。
『桔平弱くなったばい』
 お兄ちゃんにとってはどうか判らないけど、私にとっては懐かしい声だった。
『一年前の方が強かったんじゃなかと?』
 あの人は――千歳さんは、突然現れて、突然それだけ言って、去ってった。
 たったそれだけの言葉が、アキラくんたちを傷付けたのを私は知ってる。でも、私は何もできなかった。
 たったそれだけの言葉が、お兄ちゃんの思考を縛りつける。やっぱり私は、何にもできない。ううん、こっちに関しては、私がやれる事なんて元々ないんだろうけど。私が口を出していい事じゃないもの。たぶん。
 千歳さんは判ってたんだろうな。たったあれだけの言葉で、どれだけお兄ちゃんたちに影響をあたえられるか。
 だから、すごく見下されているように見えたのかな。千歳さんが背が高いから、だけじゃなくね。
「お兄ちゃん」
 他の人なら今のお兄ちゃんには近寄りがたいだろうけれど、もう十三年も妹をしているから、別に気にならないのよね。
 お兄ちゃんのとなりにぽす、って座って、お兄ちゃんの横顔を見上げる。
「どうした」
 答えてはくれたけど、ほとんど生返事みたいなものだった。
 お兄ちゃんの頭の中には、きっと千歳さんの台詞がぐるぐる回ってて、それから色んな思い出がよみがえってきて。
 きっと、すごい葛藤があるんだと思う。
 私も、誰にも、入りこめないような。
「ここに居て、邪魔じゃない?」
 何でそんな事聞いちゃったんだろ。
 今のお兄ちゃんにとって、私が居ようと居まいと、関係ないのに。ここに居ようと、自分の部屋に閉じこもっていようと、どうでもいい事は判ってるのに。
「……好きにすればいいだろう」
 一瞬だけ、お兄ちゃんの瞳に私が映った。
 ああ、ごめんね。今は本当に、邪魔しちゃったね。
「うん」
 にっこり笑って答えると、すぐにお兄ちゃんの中から私は消えた。どこか一箇所を見つめて、でも本当はそんなところは見てなくて。
 ねえ、お兄ちゃん。
 どうして、私が泣きたくなるんだろう。
「……お」
 呼ぼうとして、声を飲みこんで、そっと立ち上がって、一歩お兄ちゃんに近付いて、見下ろした。
 すごく自己満足なのは判ってるんだけど。今のお兄ちゃんの力になれる人は、私でない事だけは確かだって判ってるんだけど。
 私はお兄ちゃんの頭を包みこむように、そっと手を伸ばした。
 少しだけ力を入れて、抱きしめる。
「杏……?」
 ひとつの疑問を込めて、お兄ちゃんは私の名前を呼んだ。
 だって、お兄ちゃん言ったじゃない。
「好きにすればいいって、言ったでしょ」
 だから、私の好きにしてるだけよ。


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テニスの王子様
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