一人きりのクーデター

「くっそー、わかったよ! 走ればいーんだろ、走れば!」
 集合時間よりも五分ばかり遅れてコートの中に飛び込んできた英二が、両手を合わせて手塚にぺこぺこ謝っていたのは、一分くらい前の事だったかな。
 手塚はいつも通りの腕を組んだポーズで、鋭い視線で英二を見下ろして、何言か英二に伝えていて、英二も必死に食い付いていた。英二の表情はみるみる変化して、とうとう爆発。
 乱暴に地面を蹴って、フェンスの向こうに飛び出す英二は、あからさまにふてくされた顔で、何周指示されたんだか判らないけど、走りだした。
「英二、どうしちゃったんだろうね」
 そんなに早く来るタイプでもないけど、いつもなんだかんだで待ち合わせ時間には遅れないから、遅刻自体がけっこう珍しいよなあ。
 それに、遅刻したら走らされるのは当然だから、不機嫌になっても怒鳴りつけるほどじゃあないはずなんだけど。
「タカさんが気にする事ないよ。どうせいつもの気まぐれなんだから」
 不二は穏やかに微笑んで、その微笑みとは対照的な、辛辣なコメントを口にした。

 昼休みの、青々と繁った緑とか、まだ夏になりきってない優しい陽射しとかの中で、ひとりだけ穏やかな気持ちになれてない英二は、フォークに刺した卵焼きを乱暴にかじる。
 そんな英二を気にかける大石と、そんな英二を放置してマイペースに優雅な時間をすごす不二の間に挟まれて、俺はどうしていいんだかよく判らない。
「あいつはオーボーなドクサイセージカだよな! 部長だからって勝手に罰則とか決めていいのかよー!」
 大好きなエビフライを食べる時は、いつもにこにこなのに、今日は眉間に皺を寄せたまま。
 さすがの不二も放っておけなくなったのか、英二に振り返った。
「横暴とか独裁政治家とか、意味判って言ってるの?」
「なんか、悪い感じだってコトは判る!」
「相変わらずの感覚人間だね」
 不二はふう、とため息を吐いたけど、口調は英二を馬鹿にすると言うよりも、むしろ褒めている感じに聞える。
「大石、英二は手塚が職権乱用してると訴えてるけど」
「俺言ってないぞ、そんな事!」
「……今言ってたじゃない」
「何ワケのわかんねーコト言ってんのさ。手塚、弁当派だから、食券使わないじゃん!」
 たぶん英二は、ワケの判らない事を言っているのは自分だって事に気付いてないんだろうなあ。
 そんな英二を笑顔で流してしまう不二と大石に、大人の余裕みたいなのを感じる。大石は少し戸惑ってるけど。
 うん、本当の意味は、後で教えてあげた方がいいんだよね。不二が居ないところで。
「とにかく、俺は戦うぞ! クーデターだ! 手塚がすごいヤツだってのは認めるけど、あんな勝手なの許せない! みんなも協力してよ!」
 英二はフォークを握り締めた拳を振り上げる。
 瞳をキラキラ輝かせているのは、まるで正義の志士みたいだ。
「ところで、英二の遅刻の理由は結局何だったんだ?」
「へ?」
「手塚は厳しいけれど、よっぽどの理由があれば走らせたりしないだろう?」
 そうだよね。
 無断欠席は重罪だけど、この間部員の誰かのおばあさんが倒れて連絡する余裕がなかったんですって時は、無罪放免だったし(これ走らされたら、俺も手塚の事、鬼だと思ってたかも)。電車が遅れたとか、交通渋滞でバスが遅れたとかも、当然。
「英二が怒るって事は、よっぽどの理由だったのに走らされたから、って事?」
 俺が聞くと、英二は大きく頷いた。
「ほんっと、ヒデーよ、手塚のヤツ! 手塚んちは全部お母さんがやってくれるからいいかもしんねーけど、俺んちは朝食とか弁当とか、自分で作る日もあるんだぜ!? その苦労も知らないくせにさ!」
 なんとなく、すごい所帯じみた事で怒ってるなあ、と思っちゃったのは、俺だけなのかな。
 でも、家庭の事情を考慮する事は、必要かもしれないよな。
 あ、でもそうすると、家が遠い人は……とか、色々考えないといけなくなるか。大石だってそんなに近い方じゃないけど、いつも一番早く来てるし。
「でも、タカさんも毎日家の手伝いをしてから学校に来るけど遅刻はしないし、英二だって朝食当番の日は今まで何度もあったけど、いつもは遅刻してないよね?」
「そうだけど! 今日は特別なの!」
「どう特別なんだ?」
 大石は弁当箱も箸も置いて、真剣な瞳で英二の話に聞き入る。いざとなったら英二に協力して、手塚に意見する覚悟もあるんだろうなって、そんな瞳だ。
「卵焼き!」
「……卵焼き?」
「甘い卵焼き焼いてたんだけどさ、急に塩味のが食べたくなったから、作りなおしたんだよ! そんで遅れちゃったのにさ!」
 ここは、笑うところなの、かな。
 いや、でも、英二はたぶん、本気なんだよね。ほら、英二って気分屋だから、弁当のおかずひとつでも、その日の調子が変わっちゃいそうだし。真面目に部活に取り組むために必要な事で、だから、それを手塚が全否定した事が、許せなかったんだよ、うん、きっとそうだ。
 でも、やっぱり。
「ごめん、英二。悪いけど、クーデターはひとりで……」
「えー、なんでだよ!」
「ばかばかしくて付き合ってられないよ」
「ばかばかしくなんかないってー! ねえ、タカさ」
「タカさんの優しさにつけこむなよ!」
 いつもは優しい青学の母も、今日はぴしゃりと厳しいお母さんだ。英二の声を遮ってキッパリ言いきると、俺にすがりつこうとする英二の手を軽く叩いた。
「くっそー。絶対仲間集めてやっちゃるかんなー」
 英二は恨めしそうに俺たちを睨んでそう言うけど。
 たぶん、ずっと、ひとりきりなんじゃないかなあ。


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テニスの王子様
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