ほとんどまばたきしない千石の両目が、スラスラと動く俺の右手を追っているのは間違いない。
 今の俺の右手の動きなんて、こいつ自慢の動体視力なんて駆使しなくても追えるだろうになあ、とかぼんやり考える。けれどそれも一瞬で、千石の意味があるのかないのか判らない言動にいちいち反応する必要もないんだと自分に言い聞かせて、部誌を書き進めるために右手を動かす。
 一度は部誌に集中するものの、一行も書き進めないうちに、微動だにしないで俺の手を見つめ続ける千石が気味悪くて気になっちまって、集中が切れる。
 千石はそうして、俺の集中を途切れさせて遊んでいるんだろうか。
 もしそうなのだとしたらかなり悪趣味な遊びだ。一発くらいぶん殴る権利が俺にはあるだろう。けれど、違うかもしれないし、な。
「俺の右手が、どうかしたか?」
 シャーペンを部誌の上に放り投げて、俺が千石に声をかけると、
「へ?」
 千石は少し間をあけてから、慌てて俺に返事をした。
 その反応から見るに、どうやらこいつは俺に声をかけられると思ってなかったみたいだ。つまり、悪質な嫌がらせで俺の手を見ていたわけではないらしい。
 じゃあ、そこまで集中して俺の手を見る理由はなんなんだよ。
「あ、気になった?」
「当たり前だろ。何の変哲もない右手をそんなに凝視されたら、誰だって気になるっつうの」
「メンゴメンゴ!」
 千石はいつもどおりの気持ちのこもってない謝罪の台詞を口にして、シャーペンをもう一度手に取ろうとした俺の右手首を素早く掴んだ。
「放せよ」って俺の声が聞こえてるのかいないのか、俺の手を自分の目線の高さまで引っ張り上げる。
 ほんとに何がしたいんだ。説明しろ、説明!
「やっぱりさあ」
「なんだよ」
「南って手、小さいよね?」
「は?」
 突然何を言い出すんだお前、と返す前に、千石は自分の左てのひらと俺の右てのひらをぴったりと重ねた。
 俺と千石の手の大きさがまったくと言っていいほど同じだと言う証拠をつきつけられて、俺はようやく千石の言おうとした事が判ったような、だからってそれに何の意味があるんだよ、とやっぱり千石の言いたい事が判らないような。
「言われた事ない?」
「ないぞ。普通だ、普通。お前が大きいんじゃないのか」
 言うと、千石は一瞬だけ驚いて、それからにたりと気持ち悪く笑う。
「じゃあ、俺ってこの先少なくとも南くらいは大きくなれるのかな」
「……そうなのか?」
「あれ? 言わない? 手とか足とか大きいヤツは、背も伸びるって」
 あるような、ないような。微妙だ。足は確実に聞いた事があるんだけどな。
「やっぱ背は高いにこした事ないもんね。ラッキー」
 千石の浮かれる理由はテニスの事か、それとも女の子の事なのか。
 台詞だけならどっちにもとれるけれど、その下心丸出しなにたにた笑いを見る限り、女の子の方だな、絶対に。
「何してるですか?」
 疑問と期待が交じり合った大きな目が、重なった手をじっと眺める。
 何、と聞かれても……なあ?
「手の大きさ、比べてるんだよ」
「楽しいですか?」
「うーん、楽しいか楽しくないかの二択だとしたら、楽しいかな?」
 そうかよ。俺はたぶん楽しくないの方だよ。とにかく部誌を書き進めたいんだよ俺は。
「ほら、俺、南とおんなじくらいだろ? いつか南くらいは大きくなれるって事だからさ!」
「じゃあ、僕もやるです!」
 千石の解説になぜか太一はけっこうなやる気で、小さな手をぐっと握り締めてから、きょろきょろと回りを見まわす。どうやら千石や俺を対戦相手にするつもりはないらしい。
 もしかしたら、現在進行形で勝負している(ように見える)俺たちに気を使っているのかもしれない。
「東方せんぱーい!」
 太一は、一番近くに居た東方のそばに駆け寄った(と言っても数歩の距離だったんだが)。
「どうしたぁ?」
「手、貸してくださいです!」
「手?」
 首を傾げながらそろそろと差し出される東方の手に、太一はにこにこしながら手を差し出す。
 てのひらと手首の境目をぴったりと合わせて、手をくっつけると、そうだなあ……太一の指先が、東方の第二間接あたりにあるわけだ。
「……親子みたい」
 呟きながら、千石は小さく吹き出した。気持ちはよく判ったが、それはダメだろうと言い聞かせるために、俺は千石を軽く殴りつけた。
「ぜんぜん、かなわないです……」
「ん? ああ、まあな。俺、でかいからな。しょうがないだろ」
「僕は大きくなれないです……」
 少しだけ「いくらなんでも目標がでかすぎるだろ」とツッコむべき気がしてみたんだが(とりあえず室町あたりに挑戦すればいいものを)、なんか全力でしょげる太一がかわいそうでな。
 誰だって背が高くなりたいと望むもんだけど、太一は亜久津に憧れていた(いや、目標を青学の越前にしただけで、憧れの対象としては過去形じゃないか)わけだし、その願望がより強いのかもしれない。
「関係ないって。普通身長と手は一緒に成長するもんだから、そのうち両方でかくなる。偏ってるコイツが変なんだよ」
「……千石先輩、ヘンですか?」
「ああ、こいつ、変態だから。なあ、東方」
「そうだな。手だけでかくて気持ち悪い人外生物になって、どこかの研究所で解剖されちまうんだ、いつか」
 フォローになるのかならないのか判らない言葉たちを、俺と東方とで次々と口にすると、しばらくして太一は浮かない表情を消し去ってにっこり笑ってくれた。
「はい。僕、大きくなって、千石先輩をマッドサイエンティストから守ってあげるです!」
 何か間違った目標を見つけた太一は、明るい声で「お先に失礼しますです!」と挨拶すると、軽い足取りで部室を出ていく。落ちこんでいる様子は欠片も見えない。
 ああ、よかったよかった。
 じゃ、部誌の続き、書くか。何か今なら、優しい気持ちで書ける気がする。部誌を書くのにそんな気持ちが必要かどうかは判らないけどな。
「……んで」
「なんだよ」
「俺へのフォローはないわけ?」
「ないな」
「ひどい! 南も東方も、俺を晒しものにしておいて! 精神的な拷問だよ、あれは!」
 諸悪の根源が自分だって事自覚してんのか、こいつは。
 とか呆れつつも、帰りに三人でお好み焼き食いに行っちゃうあたり、俺も東方も優しいよな、ホントにな。


お題
テニスの王子様
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