君の話

 審判のラストコールが。
 みんなの昂揚した声が、勝利を納めた事、が。
 こんなにも嬉しく思えたのは、間違いなく初めてだった。

 だから今僕は、君の事ばかりを考えている。

 優勝を決めた直後の興奮と言えば言葉にして表せないほどだったし、表彰式の後だって大騒ぎだったけれど、帰り道、徐々に人が減っていく中で、みんな少しずつ口数を減らしていく。その様子は、少しずつ沈んでいく太陽とどこか似ていた。
 景色が薄暗くなるにつれて、勝利を掴んだ瞬間が一秒ずつ過去の事になっていくにつれて、優勝したのは夢か幻で現実ではないんじゃないかって、そんな不安に駆られているのかもしれない。あるいはただ、優勝の喜びをひとり胸の奥で反芻させたいだけかもしれないけれど。
「んじゃっ」
 ひょこひょこと軽い足取りで先頭を行く英二が、急にぴたりと足を止める。無言で歩く僕らに振り返って、右手を軽く握ると英二自身の口元に近付けた。
「菊丸英二の突撃インタビューのお時間です!」
「……はあ?」
 ノリがいいかどうかは微妙なセンだけれど付き合いがいい事は間違いない大石は、突然の英二の奇行にちゃんと反応してあげる。
 だからこそ英二に目をつけられるんだと思うけどね。
「はい、じゃあまずは部長の大石!」
「部長代理だって」
「この優勝の喜びを、誰に一番伝えたいですか!?」
 英二は大石がこの先何度も聞かれる事になるだろう(月刊プロテニスとか、学校新聞とかでね)定番の質問を口にすると、拳をすっと大石の口元に差し出した。
「えっ……と、それは」
 突然の事に大石は数秒戸惑う。
 大石が落ち着きを取り戻すよりも一瞬だけ早く、英二は知恵を働かせたらしい。何かをしゃべり出そうと大石が息を吸い込んだ瞬間、英二は拳を自分の口元に引き戻した。
「やっぱやーめた。大石の答えなんて聞かなくても判りきってるし。どーせ手塚、だろ」
 うっ、と大石は言葉を詰まらせた。
 確かにそれは判りきった事だけれど、だったら質問を投げかける前に気付けばいいのに、とか思う僕は鬼かな。
「ほい、じゃあ、タカさん!」
 英二は軽いステップでタカさんの目の前に移動して、タカさんの口元に拳を突きつけた。
「うーん、優勝は嬉しいけど、俺、今回試合に出てないしなあ……」
 タカさんは照れくさそうに頭を掻く。
「喜びを誰かに伝えたいってのより、みんなに感謝したい気持ちの方が大きいよ」
 ははは、と小さく風に乗る笑い声は、タカさんなりの照れ隠しなんだろうけれど、真っ直ぐな気持ちのこもった言葉は、言われた方が照れくさくなるものだよね。
 英二も大石も、タカさんが直視できなくなったのか、少しだけ視線を反らしていた。
「え、えーっと、じゃあ、不二!」
 逃げるようにタカさんのそばを離れて、英二は僕のそばに駆け寄って来る。
 口元に近付いた拳が、なんだかくすぐったいな。
「そうだなあ……」
 その時、強い風が吹いた。
 風は厚い雲を運んで真っ赤に燃える太陽を隠して、辺りの闇色を濃くする。
 激しくこすれあう木々の葉の音は、ざあざあと雨に似た不安げな音で辺りを支配する。
 僕の気持ちが強く影響しているせいかもしれないけれど、今の雰囲気は少し、あの日に似ていた。
「僕も、手塚かな」
「へー!」
「そんなに驚く事?」
「あー、いや、当たり前っちゃ当たり前だけどさ、なんか意外かなーと。なんでかは判んねーけど」
 へへっ、と満足そうに笑って、英二はまた軽い足取りで前を行く。
 僕は、僕に何かを言おうとしていた大石やタカさんから逃れるために、一歩前へと出た。
 今なら、判る気がするんだ。
 あの日、僕がはじめて他人に打ち明けた、あまりにも身勝手で醜い本音を、手塚がどんな気持ちで聞いていたか。
 僕の話だけ聞いておいて自分の事を話さなかった手塚の事を、僕はアンフェアだと思ったけれど、あれは彼流の哀れみと労わりだったのかもしれないと今なら思える。
 僕を理解する事を拒否し、僕に理解されるわけもないと諦めた彼の、優しさだったんじゃないかと。
「大石」
「ん?」
「手塚、早く帰ってくるといいね」
「ああ……そうだな」
 ふわりと優しい微笑みを浮かべた大石が再び姿を現した夕日を見つめたのは、赤に見入られたわけでなく、その方向に居る人物に思いを馳せたからなんだろう。
 僕は大石に習うように、日が落ちる方向を見た。
 ねえ、手塚。
 今度あの青学のコートで出会えた時、僕は君にもう一度僕の話をしようと思う。
 そうしたら今度こそ、僕は君の話を聞かせてもらえるだろうか。


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テニスの王子様
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