能ある鷹は爪を隠す

 秋も終わりに近付くと、真昼間でも充分寒いから、怪我をしないように準備運動はいつも以上にしっかりと。
 トラックを十周くらいして体を温めて、そのまま駆け込むようにコートに入って、俺と深司はボールを打ち合う。
 けっこう長い事打ち合ったかな。深司は無表情だったし、無言だったけど、退屈なんだろうなって肌で感じた。しょうがない。俺と深司の実力差じゃ、深司が楽しくテニスをできるわけがない。
 もしポイントを数えていたら、一試合は終わってるんじゃないかなって、その頃になってようやく、俺はずっと気になっていた事実を口にした。
「みんな、来ないね」
「……だね」
 息が切れまくった俺とは正反対の、涼しげな顔をした深司は髪をかきあげる。
 今日の練習は十時からだって、昨日橘さん、言っていたはずなんだけど。
 俺たちは校舎を見る。大きな時計は十時半過ぎを示していた。
 おかしいって事はとっくに判ってた。内村やアキラならともかく、橘さんや石田や桜井が揃って遅刻してくるとは思えないし。
 俺ひとりでぽつんとしてるなら、俺が時間を勘違いしていたのかなって思うけど、深司がここに居る以上、それもなさそうだし。
 なんでだろう、って気にはなっていたけど、とりあえず待ってみようかなって思った俺たちはこうして打ちあっていたわけだ。
 もし練習開始時間が十一時なんだとしたら、そろそろ石田あたりがひょっこり現れてもおかしくないんだけどそれもなくて――なんだろ。今日、練習中止になったのかな。
「深司、橘さんの電話番号知ってる? 家でも携帯でもいいけど。橘さん、携帯持ってるかしらないけど」
「なんで」
「電話して聞いてみようかと思って。今日練習あるのか、あるとしたら何時からなのか」
「……知らない」
 あ、そう。
 そうだよね。俺も知らないし。
 ついこの間部活内の連絡網を作って、それには橘さんちの電話番号書いてあったけど、家にあるしなあ。
「あ。でも住所ならわかる」
「なんで」
「年賀状を書くために必要だからって聞いた。生徒手帳にメモってある」
 深司はゴソゴソと荷物を明後日、生徒手帳を取り出した。
 なんか、深司がちゃんと生徒手帳を持ち歩いてるのって、似合うようなものすごく意外なような。
「学校から近いなあって思ったんだよね」
 深司が開いたメモのページには、力強い字で住所が書かれていた。多分、橘さんが自分で書いたんだと思う。
「ほんとだ。近いね」
「五分くらいじゃないの」
「直接行っちゃおうか」
「……」
 本気半分、冗談半分の俺の意見に、深司は無言で答えた。
 怒ってる? 怒ってるかな? でも深司が怒る事じゃないよな、これ。
「いいね。そうしよう」
「へ?」
 深司はラケットをバッグにしまいこんで、荷物を担ぐと、生徒手帳を片手に歩き出す。
 少し呆然としていた俺は、おいて行かれないように慌てて荷物を作って、深司の背中を追いかけた。

「……どうしたんだ、お前ら」
 玄関口で橘さんは、びっくりしたようにそう言いながら俺たちの顔を見比べる。
 それは、こっちの台詞です。
 と言える感じじゃあ、ないかな。
「あの、今日、練習、ありますよね?」
「ああ」
「時間、十時からじゃあ……?」
 橘さんは、目を見張った。
「昨晩、一時からに変更すると連絡網を回したはずだが」
 俺は慌てて、深司の横顔を眺める。
 一瞬橘さんの言葉の意味を理解できないとでも言いたげな不思議な顔をしていたけれど、すぐに何かに思い至ったみたいで、眉間に深い皺を寄せる。
 連絡網。深司の前は俺で、俺の前は神尾。
 たぶん深司は、一瞬にして俺と神尾とどっちが疑わしいかを判断してくれたんだと思う。
「そんな事聞いてないよなあ……誰だよ連絡網途中で止めた奴……最後まで回らなかったら意味がないだろ……まあ誰なんだよってあいつに決まってるけどさ……これだから困るんだよリズムバカは……」
 俺を信じてくれてありがとう、って言うべきなのかな。
 それとも、ぼやくなら神尾の前でぼやいてよって言うべきなのかな。
 橘さんも俺と似たような気持ちだったのかもしれない。いかにも苦笑、って表情でため息吐いた。
「とりあえず、中に入るか?」
「え?」
「本来の時間まで二時間以上あるだろう。これから昼飯を作ろうと思っていたところだ。よければお前たちも食べていけ」
『えっ!?』
 俺と深司は、その場でちょっと、硬直した。
 うん、実は、さっきからツッコもうかどうしようか、悩んでたんだよね。
 橘さん、なんで、エプロン姿なんですか……って。
「昼ご飯を、橘さんが?」
「ああ。今日は家に誰も居なくてな。まあ誰かが居ても休みの日の昼飯くらいは作るが」
「えっ」
 なんかもうさっきからどこにどう驚いていいか判らないんだけど。深司も完全に無言になってるし。
 正直言って家庭科の調理実習で友達とかが無残な結果を色々と見ているわけだから、いくら橘さんとは言えひとつ年上なだけの中学生男子なわけだしその手料理ってどうなのかなあ、とか不安にならないわけがなかったんだけど。
 断わる勇気がなかったと言うか怖いもの見たさと言うかで、
「じゃあ、お邪魔します」
 と、俺は足を踏み入れてしまったんだ。
 そうしたら深司だって断れなくなっちゃったのかな。
「お邪魔します」
 俺から一歩送れて、橘家に一歩足を踏み入れた。

 午後一時過ぎ。
 深司と並んで、ずっと前方に橘さんの背中を確認しつつゆっくりとトラックを回りながら、俺はぼそりと呟いた。
「……おいしかったね、お昼」
 そうなんだ。美味しかったんだ。橘さんの手料理は。
 なんでか勝手に不器用そうなイメージをもってたから、リズミカルな包丁の音とかうちのお母さんより美味しい料理とか、とにかく驚くしかなくて。
「……そーだね」
 それは深司も同じだったんだと思う。あんまりそんなそぶり、見せないけど。
「意外な隠し芸って言うのかな」
「能ある鷹はなんとやらってやつじゃないの」
 ああ、そうか。そうかな。
 鷹とか爪とか言った狂暴なものと手料理って、なんとなくそぐわないけど、ことわざの意味的には間違ってない……かな?
「タラタラ走ってんなよ!」
 どん、と後ろから背中を押される。
 俺と深司がよろけながら振り返ると、そこにはリズムに乗って俺たちを一周抜かししようとする神尾がいた。
 元はと言えばお前のせいだぞ、とか、言ってやる気には何故かならないんだよね。むしろ、得した気分だから。
「何話してたんだ? めずらしい顔合わせで」
 だからそれは神尾のせいなんだってば。
 質問に答えるためには橘さんの意外な特技について話さなきゃならなくて、話していいものかなと俺が考え込んでいると、深司は冷たい視線と辛辣な口調で、吐き捨てるように言う。
「誰かさんと違って神尾は能無しだって言ってたんだよ」
 ……恨み、こもってるなあ。
 でもぼやき出さないってのは、結局、そう言う事なんだろうな、とか思うんだけど。


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テニスの王子様
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