速読のスキルがあるとは聞いたことはない。たぶん、内容を把握しようとは思っていないんだろう。 素早くペラペラとページをめくり、パタン、と表紙を閉じてから、 「いつもありがとう、真田」 幸村はそう言って微笑んだ。 本を閉じた手や笑みを浮かべる顔の輪郭が、俺らと一緒にコートを走りまわっていた頃に比べると細くなっているように見えるのは気のせいなんかじゃないはずで、それでも以前と変わらない笑顔を見せられる事が、テニスの実力だけでは語り尽くせない強さなんだろうと思う。 「大した事ではない」 「そうかな? 図書委員の子、びっくりしてなかった?」 「……何の事だ」 「だっていくら翻訳されているとは言え、外国文学なんて真田とは縁遠いだろう。君は日本の歴史ものとかしか読まなそうじゃないか」 誰もが思っていても中々言えそうにない事を、穏やかな口調で言ってのける幸村に反応したのは、病室のすみっこでケーキをむさぼりくってるブン太のヤツだった。 はじめは無言で背中を振るわせていただけだったけれど、それは真田に遠慮してとかじゃなくて、ケーキを吐き出すのがもったいないから飲み込むまで我慢していただけだ。ノドが大きく動いた直後、声に出して大笑いをはじめたもんだから、真田はキッとブン太を睨みつける。 図星突かれて怒んなよ、とは思ったけど、隣の病室とか看護婦さんとかからうるさいと注意されそうなくらいの声のデカさだったから、真田がブン太を黙らせた事はとりあえず正しい事だった。 「不要な心配事だ。図書カードはお前のものを使っている。俺が読むものではないと向こうも判っているだろう」 「ああ、そうなんだ。せっかくだから真田のカードを使えばいいのに。そうしたら図書委員の子から『真田くんって意外と怖くないかも!』って広がるかもしれないよ」 幸村が本気なのかどうなのかイマイチ判らなかった。 でも確かに、真田が超有名な外国児童文学を借りて読んでいたら、今までにくらべてずっとフレンドリーに思えるかもしれない。 「それこそ、不要な事だ」 真田は立ち上がり、手の中にあった帽子を被って、荷物を肩に担いだ。 「邪魔したな」 幸村の、寂しそう……と言うか、心配そうな眼差しに気付いているのかいないのか、真田は短い言葉で帰る事を告げる。 え、もう帰んのかよ。俺は面会時間いっぱいまで居るつもりだったぞ。 「俺、まだ帰んねーぞ」 ブン太は真田に見向きもせずに、自分の意思を軽く伝える。 ああそうだな、少なくとも、ケーキ全部食い尽くすまでは帰らないよな、お前はな。 「各々の好きにすればよいだろう」 マイペース? 協調性がない? 違うな、なんかもっと上手い言い回しがあるはずなんだけどな。 「自分勝手だなー。ま、別にいいけどよ」 ああ、そう、それだ。さすがブン太。 真田はブン太に答えるつもりはもうないらしく、会釈みたいな形で幸村に別れを告げ、くるりと背中を向けると歩き去っていく。 病室のドアが開いた瞬間、 「真田!」 細い声で力強く真田の背中を呼び止めた。 これが俺やブン太だったら、真田のヤツはそのまま出ていったかもしれない。病室の主の声だったからこそ、真田を呼び止められたんだろうな。 「俺が聞いていい事じゃないかもしれないけど」 「……なんだ」 「君は最近、ちゃんと笑えている?」 くだらん、と。 声にはなっていなかったけれど、たぶん、真田はそう言いたいんだろう。 「どうしてそんな事を聞く」 「なんとなく、君は今心から笑えていないんじゃないかって、そう思ったから」 「今」って言い方するとまるで昔の真田がゲラゲラ笑っているように感じるのは俺の気のせいか。気のせいなんだろうな まあ、幸村の言う通り、以前の真田はもう少しだけ、いかつい表情を柔らかくする事が多かった気もする。 「どうでもよかろう」 「良くないから聞いているんだろう? 苦労かけている俺が言う事じゃないかもしれないけれど、君はもう少し余裕を持つべきだ」 心から笑えるくらいの、余裕が。 穏やかだけれど力強い幸村の眼差しが、無言で真田にそう語りかける。 「君の笑顔が見れるなら……何でもするよ」 静かな声に、どれだけの力があるんだろうな。 それまでずっと背中を向けていた真田が、ゆっくりと振り返って、幸村を見下ろした。 そんな真田に満足したのか、幸村は微笑んで、きっぱりと言い切った。 「……ジャッカルが」 は!? 「おい、オレかよ!」 「ああ」 って、穏やかな表情で平然とそんな事言うんじゃねえ! ブン太のでかい笑い声は、この際無視する事にする。 「ジャッカルは、真田に笑ってほしくないのかい?」 「それとこれとは別問題だろうが! 自分で言ったなら自分でやれよ!」 「俺は人を笑わせるのも笑われるのも得意じゃないんだよ」 「仁王か赤也あたりにやらせとけよ! 俺だって苦手だっつうの!」 「えっ……」 なんだ、その、マジで驚いたって顔は! 笑わせてるつもりはねえから……なんだ、俺が笑われてるとでも言いたいのか! お前は俺を笑ってるのか! 「あ」 「なんだ、話を反らすな!」 それでも幸村の細い指は病室の入口を示したまま、幸村の視線は入口の方向を向いたまま動きそうもなく、俺はイラつきながらもそちらを見る。 「真田、帰ってしまったね」 きっちり閉めきられたドアが、真田の気持ちを表すかのようにむしょうに冷たく感じたのは、きっと俺の気のせいじゃないんだろう。 |