今鍋に入れたばかりの鱈は最後の一切れで、煮えたらどっちが食うのかと、無言の戦いをサエと繰り広げていた時だ。 ピンポーン、とインターホンが鳴る。俺らはそんなもんにかまってられねえ。とっくに食い終えて空になった皿やもう必要なくなった自分たちの食器を邪魔だからと台所に運んでいたお袋が出て、事なきを得た。 はずだった。 「春風、ヒカルくんが来たわよ。出なさい」 「あ!?」 サエが勝ち誇った顔をした。今席を立ったら、この鱈は百パーセントサエのもんだ。 なんでこんな時間に来やがるんだダビデのやつ! 俺は小さく舌打して、箸を置いて、玄関に向けて走った。急いで帰ってくれば、鱈に間に合うかもしれねえ。 ドアを開けると、ダビデのヤツ、こっちの気持ちも知らずににこにこ笑顔を浮かべて立ってやがる。 「どうしたんだよ、こんな時間に」 「いきなりで、ごめん」 ダビデはいつものいかつい無表情で、さりげなく俺を家の中に追いやる。同時にダビデ自身も家の中に入ってきて、バタン、と玄関扉を閉めた。 なんか強引なやり口だよなと思いつつも、外は寒ぃし、コートやマフラーで完全防備なダビデはいいけど俺は寒いから、中入ってくれた方がありがたかったわけなんだが。 「泊めて」 「……は?」 「家出してきた」 突然飛び出てきた台詞は、思った以上に深刻で、当然鱈はサエに食べられちまったわけなんだが、そんな事はどうでもよくなっていた。 まあテニス仲間が泊まりにくる事なんてしょっしゅうだし、今日はちょうどサエも泊まりに来てたからついでだし、ダビデは飯を家で食ってきたって言うから、ウチの家族には問題なく受け入れられたわけなんだが。 ああもちろん、家出したなんて事は言わなかったけどな。んな大げさな問題にするのもどうかと思ったしよ。本気で家出する気なら、すぐにバレるウチなんかに来ねえだろ。 「んで」 「うぃ?」 「家で何があったんだよ」 「別に大した事じゃない」 「大した事じゃねえなら家出すんなっつうの」 「……突然お邪魔するからと思って、差し入れ持ってきた」 俺の正当なツッコミをかわす方法が他になかったのかもしれねえけど、あっさり話を反らすな! しかも中身の菓子、全部甘ったるいやつばっかりじゃねえか! 差し入れなら自分が嬉しいだけじゃなくこっちも喜ぶモンにしろっての! 「一応気がきくんだな、ダビデ」 「俺大人の男だから」 「大人の男は家出なんてしねえっつうの!」 「……そうか!」 ダビデは買ってきた菓子を開けながら、驚いた口調でそんな風に言う。 「家出先は、バネさんの家で。……ぷっ」 ……もしかして俺は馬鹿にされてるのか? いや、ダビの事だから本気だと思うけどよ。 とりあえずいついかなる時も、俺はツッコミ(蹴り)を入れんのを忘れない。 ダビデは蹴られたところを痛そうにさすったかと思うと(自業自得だ)、情けないツラを急に真面目にしてから、 「説明してもバネさんには判らない」 なんて呟きやがった。 カラカラと、サエの手の中の小さな箱が揺れて、ピンクと茶色が重なったチョコレートが何粒かが、ダビデの手のひらの上を転がる。 ダビデはそれを頬張ってから、ふいに何かに気付いたように、サエの目を真正面から見つめた。 「なんだ? 俺にはお前の気持ちが判る、とでも?」 「……たぶん」 お前なあ。 じゃあふたりまとめてウチ出てけって言う権利があるぞ、俺には。 「卑怯だ」 「え?」 「俺が小さい頃は向こうの方が大きくて、さんざんこっちを苛めてくれたくせに、こっちが大きくなったら男のくせに女に手を上げるなって、ものすごい不公平だ」 ポツリ、ポツリと語られるダビデの言葉に、 「……判るな、それは」 サエはキラキラ目を輝かせて頷いた。 なるほど。そりゃあ確かに、家族構成も立場も違う俺には判んねえ話だな。 「つまり、姉ちゃんと喧嘩したって事か」 いや、そんな、驚いて固まるなよ。 俺の推理力がすげえわけじゃなくて、他に考えようなかっただろ、今の話聞いてたら。 図星を突かれたダビデは、それでも答える気はないらしい。ふてくされた顔をして、もっかいチョコを頬張ると、俺の布団に飛び込んだ。 「……寝る」 「寝んな!」 「……ぐう」 「せめて歯ぁ磨け! チョコ食ってそのまま寝たら虫歯になんぞ! 歯医者だぞ!」 布団にくるまって、俺の枕抱きしめたまま、ダビデは動こうとしない。 こりゃ完全に拗ねてやがんな。まったくしょうがねえやつ。 「ったく」 俺はダビデに背中を向けて、サエの手から小さな箱を取り上げると、中からザラザラとこぼれるチョコレートをそのまま口ん中に流し込んだ。 「上には上の苦労がある事知らねえくせに、勝手な事言いやがって」 俺が本音を吐き出すと、俺の背中の向こうでぴくりと動く気配がする。 それがおかしかったのか、サエは小さく吹き出した。 |