名ゼリフ

 不二がバッグを開いた表紙に、小さな正方形を象るモノが、ぽろりとこぼれ落ちた。
 それを目にしていた俺は反射的に手を伸ばしていて、体勢を大きく崩しながらも、なんとか地面に落ちる前にすくいあげる。
「不二、落ちたぞ」
「あ、ごめん。ありがとう」
 落ちた音がしなかったからかな。不二本人は落としていた事に気付いていなかったみたいで、振り返って俺の手の中にあるものを確認すると、少し驚いていた。
 いつも通り優雅に笑って、受け取る。
「本か?」
「うん、まあね。姉さんが『たまにはこう言うの読んで癒されてみたら』とか言って勝手に鞄の中に」
 人が荒んでるみたいな言い方しないでほしいよね、と不二は冗談まじりに笑いながら、正方形の本を開いてみる。
「どんな話なんだい?」
「物語じゃないよ。辛い時とか、悲しい時とか、くじけそうな時とかにさ、自分を支えてくれた言葉を色んな人から集めた本みたいだ。名セリフ集みたいなものだね」
「へえ」
 少しだけ興味を持って、俺は不二の手の中にある本を覗いてみる。
 今開いているページだけでも、いくつかの優しい言葉があった。作家が書いた洗練された言葉ではないから、とても平凡な言い回しだったりしていたけれど、だからこそ余計に身近に感じて、救われるような言葉たち。きっと投稿した人たちにとっては、宝物のような言葉なんだろうな。
「でも、姉さんの言いたい事も少し判る気がする。僕にはまだこんなふうに、心に残る台詞はないと思うから」
 不二の微笑みが、少しだけ寂しそうに見える。
「それってさ、不二には辛い事も、悲しい事も、くじけそうな事も、今までなかったって事じゃねーの?」
 静かでかなしげな空気をあっさり突き破った英二の台詞は、ちょっと無神経なんじゃなかろうかと俺は思った。
 が。
「そうかも」
 不二がそんな風に笑うから、英二を注意する気にはならなかった。
「英二はあるの?」
「あったりまえじゃん!」
「へえ。どんなの」
 不二に聞かれて、英二は即座に答えようと口を開く。
 けれど口を開いただけで、ためらいがちに視線を泳がせてから、口を閉じてしまう。
「……秘密!」
「秘密にされると、余計聞きたくなるのが人情だよね」
「絶対言わねえもん!」
「はーい、はーい、不二先輩! 俺、知ってるッスよ! 絶対、あれッス! 関東大会初戦で試合中に言ってた、アレ!」
「あれ?」
「こらー、桃ー! 言ったらしょーちしないからなー!」
 ついさっきまで、穏やかでちょっといい話をしていた気がするんだけど、いつの間にか部室の中は、英二と桃がつくりあげた賑やかな空気に支配される。
 まあきっと、それもいい事だから、いいか。
「大石は?」
「ん?」
「大石にもあるの? そう言う台詞」
 英二への興味をすっかりなくしたのか、それともほとぼりがさめた頃に隙をついて聞き出そうとしているのか、不二はじゃれあうふたりを綺麗に無視して、俺に向き直っていた。
 辛い時、悲しい時。くじけそうな時。
 自分を支えてくれた言葉。
 思い出す時は必ずと言っていいほど、夕焼けの優しい眩しさと共に。
「ある、かな」
「へえ!」
「……驚く事かい?」
「うん、まあね。大石ってそう言う言葉を言う側で、言われる側じゃない気がして。あと辛い事とかあっても、自分自身に言い聞かせそうな感じがするかな」
 それが真実であるか俺自身には判らないけれど、不二の評価はとても、嬉しいことだった。
 確かに自分を奮い立たせようと、自分自身に言葉を投げかける事は少なくないと思う。自分の言葉だって支えに、力になる。
 けれどとある事象に対しては絶対に、俺の中で何よりも力を持つ言葉は、俺の言葉じゃないんだ。
「聞かない方がいいのかな」
 くすり、と不二が笑う。
 俺は少しだけ考えてから、無言で頷いた。
「俺は言いふらしたいくらいだけど、多分本人が嫌がるだろうからさ」
「今すぐ確認できる相手じゃないんだね。九州に行ってるとか」
「……まあな」
 不二の切り返しはなかなかに鋭くて、俺は肩を竦めるしかない。
 ほとんど答えを言ってしまったようなものだ。不二の知らない俺の友達かもしれないよ、と返す事は簡単だったけれど、多分そんな言葉は通じないだろうから。
「やっぱりね」
「やっぱりか? 意外だ、とかじゃなくて?」
「そうじゃなきゃ部長代理なんて役割、やってられないんじゃないかと思って」
 俺は再び、肩を竦めた。
「確かにな」


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テニスの王子様
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