名前を呼んで

 目が合ったのは偶然だった。
 意味もなく、ただ何となく俺が振り返ると、視線の先にアキラが居て、うちのクラスの後ろの入口近くでうろうろしながら、室内をちらちら覗き見ている。
 うちのクラスに用があるのは明らかで、俺は立ち上がって入口んとこまで行こうかと考えたんだが、アキラが慌てて俺から目を反らトコを見るかぎり、もしかしたら余計なお世話なのかもしれない。
 俺は優しいから、とりあえずこっそりと見守ってやろう。アキラがうちのクラスに来て、俺に用がないんだとしたら、あとはひとりしか居ないしな。
 彼女――杏ちゃんは、まだアキラの存在に気付いていなかったみたいだ。別の用件かただなんとなくか席を立って振り返り、そこでやっとアキラがうろうろしている事に気付いた。
「あれ? 神尾くん、どうしたの?」
 杏ちゃんはアキラのそばに小走りで近寄る。
 アキラの方はと言えば、俺と目が合った時と違って、拒絶する様子はない。判りやすいやつだ。
「あ、いや、さ。数学の教科書忘れちまって、借りれたらな〜と思って」
 ……手口が可愛すぎるっつうか情けなさすぎるっつうか。
 俺は思わず近寄ってはったおしたくなる衝動を抑えた。
「数学かあ。ごめん、私今持ってないんだ。さっき深司くんも忘れたって言ってたから、貸しちゃったの。まだ返ってきてなくて」
「深司が? へ、へえ」
「うち一時間目が数学だったから、多分桜井くんが持ってると思うよ」
 杏ちゃんは無邪気に笑って、アキラの横を通りすぎていく。
 俺は机ん中から数学の教科書を取り出して、杏ちゃんの背中を目で追うアキラに近付いていった。
「必要なら、貸すぞ」
 差し出した教科書を、アキラは無言で受け取った。杏ちゃんを追うのをやめ、ようやく俺の方に振り返ったのは、その時だった。
 振り返ったからって、こいつは俺に礼を言うわけでなく、深いため息を吐くだけ。
 この態度に、俺は腹を立てる権利くらいはあるんじゃないかと思うんだが、どうだろう。
「なんだ。他にも忘れ物あんのか」
「ねぇけどよう……」
 アキラは言い辛そうに呟いてから、もう一度、杏ちゃんが立ち去って行った方向を見る。
 ……ふうん。
「いいよなあ深司は。俺も名字じゃなくて名前を呼んでほしいなあ」
 俺がアキラが見ている方向を眺めながら、なんの脈絡もなくそう口にすると、アキラは教科書を手放した。
 バサリ、と音がして、ほんの少しだけ硬直する。それから慌てて教科書を拾って、真っ直ぐに俺をにらみつけてくる。
 思ったより慌て方が足りないな。図星(しかも恥ずかしい系)を突かれたアキラって、もっとおもしろいんだけどな。なんか慌てると言うよりは、俺を警戒している感じ……ああ。
 まてまてまて。勘違いするなアキラ。俺はお前の仲間じゃない。
「とか、思ってるだろ、お前」
「う、ええええ!!?」
 そうそう、俺が見たかったのはこっちだ、こっち。
 アキラは慌てて、もう一度教科書を取り落とす。そんなにバサバサ落とすなよ。別に教科書を大事にしてるわけじゃねえけど、他人にボロボロにされるとなんか気分悪いだろ。
「な、で、お、お前だって思うだろ!?」
 別に。俺、名字で呼ばれるの割と好きだし。名前で呼ばれるのが嫌いなわけじゃねえけどな。
 でもアキラが、捨て犬みたいな目で訴えてくるからさ、ちょっと可哀想だなあと思ったわけさ。
「そうだな。深司だけ特別って感じなのは、ちょっと悔しいよな」
「だろ? なー、そうだよなー、フツーそうだって!」
 普通、そうか? 違うと思うぞ。
 とか、まっとうなツッコミは、可哀想だからしないでおいてやろう。
 ほんと俺って、優しいよなぁ。


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テニスの王子様
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