思わぬ伏兵

 日直で少し遅くなるって伝えておいて、と言う英二の伝言を背中に受けながら、僕はひとり階段を降りる。走るとまでは言わないけれど少しだけ軽快に、すばやく。
 そうして踊場をひとつ折り返すと、ちょうど階段を降りきった所に大石の姿があった。
「大石」
「ああ、不二」
 呼びかけると、彼は振り返る。いつも通りの優しくて爽やかな笑顔を浮かべて。
 彼は何も言わず、僕が階段を降りきるまでその場で待機して、僕が隣に並ぶと、また一歩ずつ歩き出した。
 そこから昇降口を抜けて部室に行くまでほんの数分間、僕らどうって事ない会話をした。今日の僕らは朝練が終わってから今まで顔を合わせていないから、くだらない話のネタならいくらでもある。どうせなら共通の知り合いの話をした方がおもしろいし、本人が遅れてくるから邪魔する人も居ないしで、ほとんどが英二の失敗談だったけれど。
 部室の前に辿り着くと、大石はポケットから部室の鍵を取り出して、慣れた手つきで鍵を開ける。ノブに手をかけてドアを開けると、それまで穏やかだった大石の表情が急に険しくなった。
「どうしたんだい?」
 そのまま硬直している大石の肩越しに、僕は部室の中を覗き込む。と、大石の表情が急変した意味を瞬時に理解した。
 規律に厳しい部長や細かい気遣いを忘れない副部長のおかげか、普段男子部としては奇跡的な綺麗さを誇る我らが男子テニス部の部室が、驚くほど荒れていた。部室の中に整頓されて置かれていた荷物が、ゴミ箱をひっくり返したかのようにちらばっている。
 まあ、うちの部長や副部長の方針か、あまり余計なものは置いていないから、それでも一般男子部並の汚さじゃないかと思うけどね。埃が積もっていない分ましかもしれない。
「朝は何ともなかったよね?」
「ああ。何事もない事を確かめてから鍵をかけた」
「閉め忘れてたわけでもないよね。今鍵を開けていたし」
「ああ……」
 嘆いていた所でどうにもならない事を本能的に悟っているのかな。大石は部室の隅に荷物をおくと、さっそく片付けをはじめる。僕ももちろん手伝った。
 転がったままの籠を起こして部室中に広がるボールを拾い、だらしなく床に落ちていたジャージは名前を確認してから埃をはたいて綺麗にたたんで、個人のロッカーに戻す。本とかグリップテープとかその他もろもろ、明らかに個人のモノなのに名前が書いていないものはさすがの大石もほとんど判断がつかなくて、後で本人に確認してもらおうととりあえずベンチの上に積み重ねた。
「あれ。これ、テストかな」
「……なんでそんなモノが部室に?」
「さあ。誰のだろう」
 僕がためらいもせずに開くと、ちょっとあんまりすぎて口には出せない点数が目に飛びこんできた。
 ……親に見せたくなくて、家に持ちかえれなくて、ここに置いていったのかな。
 僕はとまどう大石に微笑みかけて、元通りたたみなおして、そのテストを桃のロッカーの奥の方にしまってあげた。
「どうかしたのか」
 大石はもちろんの事僕だってそれなりに手際よく片付けていたけれど、誰ひとり来ないうちに片付けが終わるわけがない。まだ一目で異常事態だと判る程度には散らかっているうちに、我らの厳格な部長は部室にやってきてしまう。
「手塚」
 大石は一瞬振り返って、手の中にある荷物を片付けてから、今度は体ごと手塚に向き直った。
「俺たちも驚いた。朝は何ともなかったのに、さっき来てみたらこのありさまだ。これでも少しは片付けたんだが」
 それ以上の事は僕らにも判らないんだから説明のしようがない。僕らが黙っていると、手塚が無言で部室の中を見回す。
「こんな事になってしまってすまない。鍵の管理は俺の役目なのに」
 大石は目を伏せて、謝罪の言葉を述べた。
「大石がやったわけでもなければ、鍵を紛失したわけでもないのだろう。謝る必要はない」
「そうだよ。見たところ何かを取られてるわけでもなさそうだし」
「いや、しかし、部室の鍵はこれしかない。俺の管理不行届きだ」
「……うーん」
 そうなんだよね。問題はそこなんだ。
 鍵は大石しか持っていないし、けれどどう考えても、大石が部室荒らしの犯人とは思えない。犯人はどうやって部室に侵入して、荒らしたのかな。
 僕は部室の中を歩き回ってみる。窓は閉じられていて、内側からしか開閉できない鍵もしっかりかかっている。ドア以外のところから入った可能性は低い。
 鍵以外のものを使って鍵を開けたのかな。でもそう言うのって、元通り閉める事もできるものなんだろうか。
「大石、今日体育あった?」
「え? あ、ああ。四時間目に」
「その間に鍵を取られて、荒らされて、また戻されていたら、大石にも判らないよね」
 珍しくも大石と手塚の眉間に、同時に皺が寄る。
 不用意に誰かを疑うのはあまり気分のいい事じゃないけどね。このまま何事もなかったように流すわけにもいかないし。
 ……あれ?
 なんだかものすごく、ひっかかるものがあるなあ。
「ところで大石、根本的な質問を忘れていたけど……今日、誰かに鍵を貸してない?」
 僕が尋ねると、大石はビクッ、と体を硬直させる。
 ……詰めの甘い嘘しか吐けない男だね、相変わらず。
「貸したんだ」
「いや、その、だが……!」
 今思えば、ちょっと謝るタイミングが早すぎてたよね。大石ともあろう男が、僕や手塚にだけ謝って気がすむわけがない。部員全員集めて、全員に頭下げるくらいの事はしそうだ。
 事を大きくしたくなかったって事かな。鍵を貸した相手をかばうために。
「誰に貸したんだ、大石」
 手塚が大石に向ける視線は、珍しく厳しかった。品行方正な大石に対して手塚が怒る要素なんてまずないからね(むしろ大石の方こそ手塚に怒るべきじゃないかとたまに思うよ)。
「それは……」
 あくまで黙秘権を行使する大石。
 その権利すら奪おうと無言の圧力をかける手塚。
 ピリピリと緊迫した空気は、第三者の介入がなければ動かないだろうと思っていたけれど、たとえ誰かがこの場に居たとしても介入する勇気がある人物は限られていただろう。
 僕もちょっと遠慮したいなあ。なんて思っていると、思わぬ伏兵は、実に意外な所から現れた。
「にゃあ」
 一瞬にして空気を和ませる小さな鳴き声は、ベンチの下から発生した。
 大石は頭を抱え、手塚はポーカーフェイスは崩さなかったけれど慌てた感じで、僕と一緒にベンチの下を覗き込んだ。
 底の浅いダンボールにタオルがひいてあって、その上には一匹の愛らしいネコが、小さく尻尾を振っている。
 犯人は、このコ、なのかな?
「……大石」
「その、今日だけだって言うから! 帰りには家に連れて帰って、家で飼うって言うし、先生たちの目に付く所に置いておくわけにもいかないし、眠ってたし、まだ小さいからこんなに暴れるとは思わなかったんだ! 捨てられていたらしいし、ほ、放っておくのは可哀想じゃないか!」
 あれ。
 その言い方からすると、ネコの飼い主(?)は大石じゃないわけだ。
 じゃあ誰だろう。英二なんだかだと黙ってられないだろうし、タカさんちは寿司屋だから飼う事なんてできそうにないし、他に通学中に捨て猫を拾っちゃうようなキャラの部員は……桃? いや、桃にしては詰めが甘すぎる気がする。越前? 彼、カルピン以外の猫にも興味があるのかな。
「部室は責任持って俺と彼で片付ける。手塚の指示通りグラウンドを走るよ。だからこの事は、みんなに黙っていてくれないか。頼む」
 どうしてそこまでして猫の拾い主をかばうのか判らないけど(それこそ大石なのかもしれないけど)。
 大石が深々と頭を下げる様子にか、それとも小さな命を救おうとした謎の人物の優しさにか、さすがの手塚もほだされてしまったんだろう。
「グラウンド十周だ」
 大石や僕が予想していたよりも貼るかに少ない数字を提示したかと思うと、床に落ちていた誰かの本を拾い上げた。

「あっれ〜?」
 少し遅れて部活にやってきた英二は、みんなより遅れてウォーミングアップをしながら、不思議そうに口を尖らせる。
「ねーねータカさん、なんで大石と海堂のやつ、グラウンド走らされてんの? 何かしたの?」
「さあ。なんでだろう。俺も気になってるんだけど、手塚は言わないし、聞けないし」
「ふ〜ん。海堂はともかく大石が走らされてるのって珍しいよな〜。あとで理由聞いてみよっと」
 さりげなく英二から顔を反らす手塚と、照れくさそうに走る海堂の顔を見比べて、僕はたまらず小さく吹き出した。


お題
テニスの王子様
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