疾風のように現れて、疾風のように去っていく。 どこかで何度か聞いた事があるフレーズが、誰のことを言っているのかなんて、俺が知るはずもないんだけどさ。 さっきまでは間違いなく、そこに居た。 湿度は高いし気温も高い、何よりも暑い陽射しの元で、我慢大会でもないのに真っ黒いジャージをちゃんと着て、そのくせ誰よりも涼しげな顔をしながら。 九州って関東より暑いんだよな。だから橘さんは暑いのに強いのかな、それだと夏の大会って南の方に住んでいる人のが有利でなんだかずるくないかなあ。冬だと今度は北の方に住んでいる人が有利だし、公平にするなら春とか秋にやるべきだよ。 とか思いながら見てたから間違いない。 それなのに、 「橘さん!」 俺との打ち合いを終えた神尾が振り返って名前を呼んでも、返事はない。 ダブルス陣も模擬試合しているはずだからそっちを見ているのかなと思ってもう片方のコートの方を見てみても、やっぱり居なくて。 ひとりで自主トレしてるのかな。橘さんだって俺たちの指導ばっかりしてられないし、自分の練習しなければいけないんだから、別にそれは構わないけど。 フェンスの向こうの校庭をざっと見回しても居ないし。壁打ちでもしてるのかと思ったけど見える範囲には居ない。ボールの音も聞こえないしね。 「あれ? 橘さん、どこに行っちまったんだ?」 気楽そうな声で、軽く笑いながら神尾は言う。 少し不安げに聞こえるのは気のせいじゃないんだろうね。 いや――もしかしたら俺の気のせいかもしれないな。そんな気がしてきた。 「別にどこに行こうと橘さんの勝手だろ。いちいち俺たちに言っていく義務があるわけでもないんだしさ」 神尾に言い聞かせるように言いながら、たぶん本当は自分自身に言ったことば。 「ああ、まあ、そうだけど」 神尾は何か俺に反論したそうな顔をしていたけれど、不満を必死に飲みこんで、納得したみたいだった。 「あ、橘さん……」 黙って待ってたって何にもならないし。 何かしら練習をするか、どうしても不安なら探しにいけばいいんじゃないかって、そんな無駄な時間を何分か過ごした後、橘さんはコートに戻ってきた。 どこに言ってたんだろう。歩いてくる方向からして、校舎とかそっちの方みたいだけど。 「何かあったんですか?」 「ああ、突然電話が入ったらしくてな。俺が出た方が話が早いって事で職員室に行ってた」 「学校に……電話が?」 神尾が不審に思うのも当然かもしれない。 橘さんの知り合いで何か緊急の用事があるなら携帯の方に電話を入れればいいんだし。 「青学の大石から練習試合の申込みが来たんだ」 ああ、なるほどね。 その程度の知り合いなら携帯の番号知るわけもないし、一応学校同士のやりとりになるわけだから、学校を通すが普通なのかな。俺はそう言うの良く知らないし興味もないけど。 「そう言うわけだから、明日は放課後青学に行くぞ。忘れるなよ」 「はい!」 神尾はすっかり気分を良くしたみたいで、青学までのバス代いくらだったかなあとか呟いてる。 片道二百円とかじゃないのって適当に返してから、俺がもう一度橘さんの方を振り返ると、橘さんは今試合が終わったばかりの四人の方に近付いて、明日の練習試合の事を伝えていた。 ……突然居なくなったのって、ただの電話だったのか。 なんだ、そうか。よかった。 「疾風のように現れて……か」 「ん? 何か言ったか、深司」 「別に」 ただ、祈ってみただけだよ。 あの人がいつか、疾風のように去っていってしまわなければいい、ってさ。 何に対して祈ればいいのかなんて、判りもしなかったけど。 |