泣き出す5秒前

 みんな割と近くに住んでいるから、帰り道はほとんど同じ。
 けれど当然別の家に住んでいるから、少しずつ道は分かれはじめて、最後にはお兄ちゃんとふたりきりになる。
「決勝、残念だったね」
 ふたりきりになって、はじめてその言葉が言えた。
 残念なのは、今日行われた地区大会の決勝に負けてしまった事ももちろんだけど、お兄ちゃんが内心とても楽しみにしていた、青学の手塚さんとの試合ができなかった事。
 こんな事みんなの前で言っちゃったら、伊武くんがまたぼやきそうだから、言えなかったんだけど。
「そうでもないさ」
 見上げたお兄ちゃんの横顔は、真っ直ぐで強い眼差しと、軽く笑みを浮かべた口元が印象的だった。
「楽しみがまだ先に残っていると言うのも、悪くない」
 お兄ちゃんらしいと言うか、なんと言うか。
 でも確かにそうね。お兄ちゃんと手塚さんの試合なんて、地区大会の決勝で見るにはちょっともったいない感じがする。関東とか、全国とか、そう言う大舞台で見てみたいな。
「そんな事より、さっきから気になっていたんだが」
「ん?」
 お兄ちゃんは足を止める。
 私を正面から見下ろして、あいている右手を静かに私に伸ばしてくる。
 指先で軽く私の髪を掃って、優しく、私の頬に触れた。
「ここだけ少し赤いようだが、何かあったのか?」
 ……やだ、もう。
 どうしてこう言うところだけ目ざといのかしら。腫れているわけでもないし、髪の毛に隠れて見えにくいから、気付かれずにすむかと思ったのに。
「大した事じゃないわよ」
「お前にとって顔を殴られるのは大した事じゃないのか?」
 すっごいちっちゃい頃とは言っても、私をぶった事ある人に、そんな事言われたくないけどなあ。
 あの時は私も思いっきり泣いたし、お兄ちゃんは両親に思いっきり怒られてたし、大した事と言えば大した事だったけど。
「殴られたとは限らないじゃない。たまたま飛んできたボールにぶつかったとか、よそ見していてうっかりどこかにぶつかっちゃったとかかもしれないわよ?」
 なんて言ってみたけど、お兄ちゃんの真っ直ぐな眼差しを前に、半端な嘘が吐けるわけがない。
「……まあ、殴られたんだけどね」
「何があった」
 お兄ちゃんの声音が少し低くなる。ちょっと怒ってるのかな。
 もう、とっくに済んだ事なんだから、そんなに問いたださなくてもいいじゃない。
「ほんとに大した事じゃないのよ。青学の女の子がね、ヘンな男に絡まれちゃって。言い分が意味不明で腹立ったから、思わず割って入っちゃったら、ね」
 私が正直に言うと、お兄ちゃんは少しの怒りの中に、少しの戸惑いを混ぜ込んだ。
 ああ、お兄ちゃんってば、困ってるんだわ。
 そりゃそうよね。自分が現場にいたら真っ先に割り込むに決まってるんだから。
「人助けはいいが、あまり無茶をするなよ。今回はこの程度で済んだからよかったものの……」
 頬に触れるお兄ちゃんの指先が、一瞬震えた。
 心配してくれてるんだって、そんな優しさが温もりと一緒に伝わってきて、それがなんだか、ものすごく胸につかえた。
「心配、しすぎよ」
 だって、黙ってられなかったんだもん。しょうがないじゃない。
 頭に来てたから、私よりもちっちゃくて、ずっとか弱そうで、大人しそうで、可愛いあの女の子を守ってあげなくちゃって、それだけで頭の中がいっぱいだったから。
 だから、あんまり考え付かなかったのよ。
 けして力では敵わない相手に暴力をふるわれるかもしれない、とか。
 それによって怖い思いをする事になるかもしれない、とか。
 こうしてお兄ちゃんを心配させる、とか。
「あのね、青学の桃城くんが突然現れて、相手をぶっとばてくれたの。だから本当に、心配する事なんて何にも……」
 そっと、お兄ちゃんの手が離れる。
「よく、頑張ったな」
 そしてお兄ちゃんは一瞬だけ、労わるような慈しむような視線で私を見下ろして、くるりと背中を向けて歩き出した。
 私は理由も判らないままにこみ上げてくるものを必死に隠して、お兄ちゃんの後を追いかける。
 やだ、もう。
 なんでそんな絶妙なタイミングで背中を向けてくれるの。あと五秒遅かったら、間に合わなかったわよ。
 ……きっと、全部判ってて、なのよね。
 お兄ちゃんのそう言うとこ、ほんとに、すごくむかつくわ。


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テニスの王子様
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