早朝の誰も居ない学校の空気がとても好きだ。 神聖な場所にひとり佇んでいるような、そんな不思議な気持ちがする。 静かな空気の中で、俺はひとりコートの中に入り、深呼吸をひとつしてからバッグから取り出したラケットを何度か振ってみた。 この愛用のラケットを力強く握り締めてみると、とても懐かしい気持ちになるのは、ここ数日ラケットを握ってなかったからだろう。都大会準決勝の直前の事故を起こした時、「完治するまではラケットを握るなよ」って橘さんに言われたから。 あんな形で橘さんを裏切る事になった俺たちが、その直後に受けた橘さんの指示を裏切れるわけもない。ましてそれが俺たちの体を気遣ってくれてるためだと判ってるんだから、尚更だ。 まあ俺たちの考え無しの暴走を戒めるため、頭を冷やさせるためでもあったんだろうけれど。ここ数日、橘さんをひとりじめ(この場合ふたりじめって言うんだろうか)して練習してる内村と森を見ていて、すごく悔しかったからなあ。 「早えな、石田」 素振りが何十回目かに到達したころ、フェンスの向こうから声が届く。 ラケットを振る手を止めて振り返れば、登校したばかりで制服のままの橘さんが、そこに立っている。 そりゃあいつもよりは早く来てみましたけど。早いのはお互いさまじゃないですか。 「おはようございます、橘さん」 「おはよう。……もう、傷の方は大丈夫なのか?」 橘さんは、俺の頭の天辺から足先まで、ゆっくりと視線を巡らせた。 「はい、もう完全に治りましたよ。今の素振り、無茶をしているようには見えなかったでしょう?」 「……まあな」 納得したのか安心したのか、橘さんは薄く笑う。 「本当に反省してるんですよ、俺たち」 「そうか」 その時見せた橘さんの曖昧表情は、「もう二度とするなよ」とでも言いたげな、複雑なもの。 もう二度と、するつもりはないけれど。 滅多にある事じゃないけれど、もし再び同じような状況に陥った時、俺たちはどうするんだろう。 ちゃんと橘さんに報告して、試合、棄権できるんだろうか。 俺なんか波動球の事も考えると前科二犯になるしな……正直言って、いざその時に理性を働かせる自信はなかったりする。 だから。 「あの、橘さん。もしも、の事なんですけど」 「なんだ」 「もちろんそんな事しないつもりですけど、もしも、もしも俺たちがまた同じ状況で、同じ馬鹿をやったら」 「……だから、するなと」 「いや、もちろん、しないですけれども、万が一ですよ」 俺は橘さんの言葉を遮って、それからゆっくりと深呼吸をして気分を落ちつける。 「もしも俺たちが同じような馬鹿をやったら、その時は、俺たちを怒らないでください」 これだけじゃあ、ものすごく甘えてる言葉に聞こえなくもない。 けれど橘さんは即座に怒ったり意味を問いただしたりしないで、真剣な目で俺の言葉の続きを待ってくれた。 橘さんに怒られて嬉しいわけじゃない。迫力あって怖いし。でもどこか幸せだから――だから、怒られても、俺たちは同じ馬鹿を繰り返してしまうかもしれない。 「怒る代わりに、笑ってください」 「……石田」 「お前たちはどうしようもない、救いようのない馬鹿だって、嘲笑ってください」 橘さんへの恩に報いたい。 橘さんの役に立ちたい。 つまりは、俺たちはみんな橘さんの事を尊敬していて、大好きだから……怒られるよりもそうして橘さんに突き放される事の方が、よっぽど堪える。 「石田」 「は、はい」 俺と橘さんとの間にあるフェンスを、橘さんはがしゃん、と軽く叩く。 「あまり俺に甘えるなよ」 「……はい」 そう言われては、思わず肯定の返事を返してしまったけれど。 そんな優しく微笑みながら言われたら、言葉の意味をそのまま受け取れませんよ、橘さん。 |