二、三回くらい電話のコールがなった後に聞こえた声は、目的の人物の声じゃあなかった。 『はい、佐伯です』 高い、明らかに女の人の声。女性の年齢にあまり触れてはいけないのかもしれないけれど、若々しい声だったから、この声の主は多分お姉さんだろう。 「不二と申しますが、虎次郎くんいますか?」 『あ、虎次郎? ごめんなさい、まだ帰ってな――』 佐伯のお姉さん(たぶん)は、とても残念そうな声で佐伯の不在を告げようとしたけれど、全て言い切る前に彼女の声を遮る音が、電話のこちらにいる僕にも聞こえた。 まずはかすかに、ドアが開く音。 『ただいま』 声音に少し疲れを感じる、帰宅を告げる台詞。 もうすぐ全国とは言え、こんな時間まで部活をしていたなんてね。六角中、あなどれないな。 もしかしたら彼らの事だから、部活の後に海に遊びに行ってこんなに遅くなったのかもしれないけれど。 『あ、今ちょうど帰ってきたわ。ちょっとまってね。虎次郎!』 カタン、と小さな音。そしてお姉さんの声が遠ざかる。受話器を置いて、佐伯に近付いていったのかな。 『不二くんって子から電話きてるわよ』 『……不二? あいつが? なんで』 『そんな事私が知るわけないじゃない。とにかくさっさと出なさいよ』 なんとなく落ち着いた雰囲気で、いつもお兄さんみたいに振舞っている佐伯だけど、家の中ではやっぱり普通の姉弟みたいだね。 『もしもし? 不二?』 「やあ。帰ってきたばかりのところ悪いね」 『いや別にいいけどさ。それで? お前が電話かけてくるなんて、どうしたんだ?』 僕が突然電話をかけた事が、佐伯にとってはよっぽど不思議だったんだろう。確かに電話なんて滅多にかける事はないし、これから全国大会で顔を合わせる事もあるんだから、話ならそこでしたっていいわけなんだけどね。 ちょっと、あまり他のみんなには聞かれたくないからさ。 「記憶違いだったら悪いんだけど、去年『ロミオとジュリエット』で主演したとか言ってたじゃない?」 『ああ、うん。やったけど。俺お前にそんな事教えたっけ?』 「うん、確か去年の関東大会かなんかでね」 『よく覚えてたな。さすが不二』 何がさすがなんだかよく判らないけれど、どうやら彼は純粋に僕の事を褒めているみたいだし、聞き流しておこうかな。 「実は僕も今年の文化祭、クラスの出し物で『ロミオとジュリエット』の主演をする事になってね。それでどんなものかと思って、経験者に聞いてみようかなと」 『なるほど。いいよ。何でも聞いてくれ』 電話の向こうからかすかに、穏やかな笑い声が届く。 優しそうな笑いに聞こえなくもないけれど、どうも、嫌な感じがするなあ。 見にくる気じゃないだろうね? 駄目だ。文化祭の日はトップシークレットにしないと。みんながうっかり口を滑らせないように注意しておこう。特に英二や裕太や由美子姉さんあたりは要注意、と。 「やっぱり『ロミオとジュリエット』と言ったらラストシーンかな。仮死状態から覚めて、恋人が死んでいたのを目の当たりにしたシーンとか……」 『ああ、そのシーンか。学芸会とは言えあんまりなものは見せられないから、けっこう難しかっ……』 佐伯はどうやら考え込んでいるらしく、そうだな、十秒くらいは黙り込んでいたかもしれない。 『あのな、不二』 十数秒ぶりに聞いた佐伯の声は、少し声を潜めた感じだった。 ……? どうしたんだろう。 「なんだい?」 『俺が演じたのはロミオの方で、ジュリエットじゃないんだけど……』 ……。 …………しまった。 「ありがとう。参考になったよ。じゃあまた全国で」 『え? ちょ、まてよふ……』 ピッ。 佐伯の返事を待たず、僕は通話を切った。切ったけれど、電話の向こうの佐伯が今も笑っているだろう事は簡単に想像がつく。 ……失敗したな。 手の中の携帯に映るカレンダーを眺めながら、僕は祈るしかなかった。 全国大会の日までに、彼がこのネタを忘れ去ってくれる事を。 |