それは「おはよう」の挨拶を交わした、数秒後の事だった。 「だからさ、男なら誰でもひとつは、野望を持たなければいけないと思うんだよ、俺は!」 千石はあと五分で朝練がはじまる事に気付いているのか(こいつの事だから気付いているんだろうが)、焦りもせず、荷物を下ろす事もせず、両手を広げて晴れやかな笑顔でそんな事を訴える。 まあ練習開始までまだそれなりに時間はあるけど……のんびり話をしているほどの余裕は、ないんだけどな。 「……ああ、そーだな」 俺が適当に答えると、 「うわっ、南、何だよその投げやりな答え! そーだなとか言っといてぜんぜんそうだと思ってない事丸判り!」 千石は必死になって訴えを続けた。 なんだ。千石、本気で言ってたのか。 俺はまたいつも通り冗談で適当な事を言っているんだと思っていたんだけどな……まあどうせ、昨日の夜か今朝のテレビから影響を受けて言っているだけで、何日かしたら忘れるんだろう。いつもの事だ。 「とにかく、とっとと着替えろよ。もうすぐ朝練はじまるんだから」 千石はしぶしぶと言う表情で自分のロッカーに向かって着替えをはじめるが、口の方を休める気はまったくないらしい。 「だからさ、俺、昨日の夜、寝る前に決めたんだよね」 もそもそとジャージ(上)をかぶりながらそんな事を言っても、全然決まらないぞ、千石。 「俺は世界中の可愛い女の子がこぞって俺を応援するような、そんなすごい男になってやるよ?」 ジャージ(上)をかぶり終えた千石は、ぐっと胸元で握りこぶしを作った。 まだ部室に残っていた連中が、全員千石の発言に振り返り、三秒もしないうちにため息を吐きながら目を反らす。 ああ。みんなの気持ち、心底理解できるよ。 「それはまた下心丸出しな野望で、ご立派ですね」 「何だよその俺を見下した口調!」 見下したくもなるだろうが。そんなアホな事言われたら。 「そう言う南は、どんな野望があるのさ」 ふてくされた千石は、そんな事を言うけれど。 いや、俺は別に、野望なんて抱いてないんだけどな。俺は別に、みんながみんな野望を抱かなきゃいけないとは、思ってないし。 ……まあ。 「あえて言うなら」 「ん?」 「そうだなあ……羊羹とか、ホールケーキとか、でっかいピザとか、最初に切り分けてから食べるやつ、あるだろ」 「うん?」 「それを切り分けないで、丸ごとのやつにかじり付いたり、フォーク入れたりするの、一度やってみたいなと思うけど。全部食べきらなくてもいいんだけどさ」 千石は動きを完全に止めて、目を見張って俺を見上げる。 「南……」 ゆっくりと口を開いて、かすれた声で俺を呼んでから、 「野望まで、地味ー!!!」 とか叫んで、腹かかえて、思いっきり笑い出しやがった。 慌てて周りを見てみれば、部室に残っている奴らみんな、俺から隠れるように肩を震わせて笑っている。 「な、なんだよ。だったらお前、これ、やった事あんのかよ! やってみたいと思わないのかよ!」 「やった事ないけど、確かにやってみたいけどさ、や、野望って……」 そこまで言って耐えきれなくなったのか、また笑い出す。 部室の中に居る奴は逃げるように出て行って、部室の外に居た奴は、千石の笑い声に引かれるように、部室の中を覗きに来たりもする。 くそっ。 「時間前にちゃんと練習来いよ!」 こうなったら、そんな捨て台詞を残して、テニスコートに向かうしかないじゃないか。 |