背中合わせて

 あれはある種の甘えだったのだろうと、思う。
 触れ合う背中から何枚もの服を通して伝わってくる温もりには、常に気丈なり喧嘩っぱやいと言う評価を受ける妹の、精一杯の想いが込められているように感じたのだ。
「お兄ちゃんは何も聞かないよね」
 互いの背中を合わせたまま、互いに振り向く事も無く、しばらくして杏は呟くようにそう言った。
「聞いて欲しいのか」
 杏は答えない。
 沈黙はおそらく肯定で、しかしその用な推理力を働かせなくとも答えは判っていた。
 杏がこうして自分の気持ちを整理させるために俺を頼ったのは――もっとも俺が何かをしたわけではないのだが――この時がはじめてではなかったし、だから俺の態度を不愉快に思っているのだとしたら、杏は二度と俺を頼りはしなかっただろう。
 何か言葉をかけてやる事は簡単だった。
 悲しさとか苦しさとか言った感情と共に飲み込んだ涙を吐き出させてやる事も、簡単だっただろう。
 だがそうする事で杏の精一杯の……これを努力と言うか意地っ張りと言うべきかは、またそれぞれなのだろうが、とにかくそうしたものを全て崩してしまう事を正しいとは思えなかったのだ。

「橘さん」
 背後から響く足音の主は、遠くから俺の名前を呼ぶ。
「石田か。今帰りか?」
 冬の西日はただでさえ長い石田の影をいっそう長く伸ばし、俺が振り返る頃には、影だけは俺の足元に到着していた。
 こいつ、またでかくなりやがったな。一体どこまで伸びる気なんだか。
「どうしたんですか? こんな時間まで学校に居るなんて」
 素直と言うか嘘が下手と言うか、思った事がすぐに顔に出るこの男は、ずいぶんと不思議そうな顔をしている。
 確かにな。
 引退してからこちら、授業が終わればすぐに家に帰っていた。学校に残っている時は、必ずと言っていいほど部活に顔を出していた。こいつが疑問に思うのも当然の事かもしれない。
「たまには違った場所で勉強でもしてみるかと思ってな。今まで図書室に居た」
「ああ、なるほど」
「そう言うお前こそどうした。練習の終了時間がいつもよりずいぶん早いようだが」
 太陽はもうすぐ地平線の向こうに落ちるだろうが、時計はまだ四時半を示している。名門私立中に比べれば貧相だが、練習をするには充分なナイター設備を利用して、いつもならば日が落ちてもまだ練習を続けているはずだが。
「……引退した俺がお前たちの練習時間に口を出すのもおかしいか」
「いえそんな! 口でも顔でも、いつでも出してください。橘さんなら大歓迎ですよ!」
 石田は笑う。
 とても嬉しそうに笑っていると感じるのは、自惚れではない、だろう。
「確かお前にも妹が居たよな?」
「え!? は、はあ、居ますけど。なんですか突然」
「かわいいか?」
「……」
 石田は突然足を止めて、胡散臭げな目で俺を見下ろしてきた。
「別に紹介しろとか言わねえし顔の事を聞いているわけでもないから安心しろ」
「あ、ああ、そうですか。そうですよね。おかしいと思ったんです」
 本当かよ。お前今、確実に俺の頭の中疑ってただろうが。
「ええと、そうですね。やっぱりかわいいですよ。守ってやらないとなあ、と言うか……まあ、そりゃ、鬱陶しく感じる時もありますけどね」
 声を出して笑いながら、照れくさそうに頭を掻く石田。
 そうだな。多分、同じ事を聞かれたら俺もまったく同じ事を答えるだろう。
「それで、どうして突然こんな事を聞くんですか?」
 それを聞くのか。さっきは上手く流してやったってのにな。
「突然、背中が軽くなるんだ」
「はい?」
「嬉しいような寂しいような、不思議な気分でな。それをお前もいつか味わうんだろうと思ったんだよ」
 言って俺が薄く笑うと、石田は俺の言葉の意味に気付いたのだろう。一瞬目を見開いてから何かを言いたげに口を動かすが、声にはなっていない。
「まあ俺が言う事でもないと思うが……頼んだぞ」
 何を、なんて言う必要はないんだろうな。
「はい」
 石田は迷わずに、いつも通りの真っ直ぐな瞳で、簡潔な返事をした。


お題
テニスの王子様
トップ