振り返れば

 夏の終わりにあの人は、驚くほど優しく微笑んで、俺の肩にそっと手を置いた。
 斜め上から温かな眼差しで俺を見下ろして、
「あとを頼んだぞ」
 そう言って、そして――あの人はひとり去っていったんだ。
 俺たちを残して。

 残された俺たち六人は、二学期がはじまった数日後、テニスコートには出ず制服姿のまま部室に集まっていた。
「なー、話すのは後回しにしてさ、とりあえず練習しようぜ?」
 だらしなくベンチに座っている内村が、帽子をいじりながら勝手な事を言う。
 俺だってできる事ならそうしたいっつうの。
「そうも行かないんだよ。今日中に報告しろって顧問に言われてるんだから」
「……あいつ、部活の事に口出してきた事今まで無かったよな?」
「テニスの事には、な。先生はテニスの事は何にも知らないし」
 でも部費の事とか大会の申込みとか、そう言う事務手続き? みたいなのはやっぱり先生がいないとできないし、そう言うのはテニスの知識がなくてもできるわけだし、橘さんは大抵の事は自分でこなしつつ、しっかり先生を立てていたわけだ。
 やっぱりすげえなあ、橘さん。
「とにかく、今週中に新しい部長を報告しないといけないんだと。なんか、書類作るらしくてさ。テニス部以外はみんな決まってるらしい」
「今週中って事は……」
「だから、今日中だよ」
「もっと早く言えよ」
 それは俺も思ったけどよ。
「部長が居ないから、誰に言っていいか判らなかったらしい」
 俺が真実を告げると、みんな黙りこんだ。
 まったく、今日俺がたまたま日直で、職員室に行ったからよかったものの、そうじゃなかったらどうするつもりだったんだろうな。あいつ、二年の教科担任じゃないから、たまたま廊下ですれ違う事もまずないし。
 部長決定の締め切りも大切だけど、それ以上にこう言う弊害をなくすためにも、早く新しい部長を決めなきゃならないよな。重要な事伝え忘れられたら困るし。
「とにかく、新しい部長、決めるぞ。誰にする」
「神尾と内村じゃなければ誰でもいい」
「深司と内村じゃなければ誰でもいい」
 何かのコントか、とりあえず打合せでもしてたんじゃないかってくらい、神尾と深司の声がかぶる。
 直後、神尾はキッと深司を睨んで、深司は涼しそうな顔をして、神尾から顔を反らす。
 ちなみに、ふたりから同時に名前を出された内村は、「土下座して頼まれたってそんなめんどうなもんやらねえよ」とか言ってる。
 むしろ土下座して「やらないでください」って頼みたいくらいだから、安心しろ、内村。
「って言うかさ」
 森が神尾を宥めるその横で、石田がきょとんとした顔で俺を見下ろす。
「新しい部長って、桜井に決まってたんじゃないのか?」
「はぁ?」
 突然石田がヘンな事言うもんだから、俺はつい荒い口調で聞き返してしまった。
「え、だってさ、桜井、橘さんにあとを頼まれてただろ」
「そりゃ、橘さん居なくなるから、みんなにあとを頼むだろ」
「……俺、頼まれてないぞ」
「はぁ?」
 もう一度、俺が荒い口調で聞き返すと、石田は俺から視線を反らして、森を見る。
 森は慌てて、「ない、ない!」と言いながら、首を左右に振る。
 続いて神尾、深司、内村と見てみるけれど、みんな「何の事だ?」とでも言いたそうな顔をしていた。
 ……本当かよ。
 マジで橘さん、俺だけに、言ったのか?
「橘さん、俺たちの事ちゃんと見ててくれたから、ちゃんと判ってるんだよ。俺たちの中で誰が一番、次の部長に相応しいかがさ」
「……それで、俺か?」
 深司とか、神尾とか、俺よりずっと強いだろ。
 石田とか頼もしいし、体がでかいから部長だって名乗るだけで、相手チームを威圧できそうだ。
 森は優しくて気がきくし。
 まあ、内村は、除外だとしても。
「お、俺は特に何ができるわけじゃ……」
「桜井は、俺たちの前を歩いてくれてただろ」
 自己否定に走りそうな俺の言葉を、石田の優しい声が遮る。
 見上げれば、石田は曇りのない笑顔を浮かべていた。
「これからも多分、桜井だけが俺たちの前を歩ける。橘さんも、それを知ってたんだよ」
 石田が、橘さんが来てくれるよりも前の事を言っているのだとすれば、それは別に俺が凄かったわけでも、俺が何をしたわけでもない。
 振り返れば、こいつらが居てくれる。
 そんな事実が与えてくれる安心感があったからこそだ。
「でもな」
「って事で、桜井に二票入ってるわけだ。もう」
「二票?」
「橘さんと、俺」
 そう言う事をケロッと、笑顔で言ってしまう事が、石田の恥ずかしいところだと俺は思う。
「俺は神尾と内村じゃなければ誰でもいいよ」
「じゃあ深司も入れて、三票」
「今のは俺だって言ってねーだろ!」
「言ったも同然だよ。なあ?」
 石田が深司に訊ねると、深司は何も答えず、髪をさらさらと揺らして立ち上がり、無言で着替えはじめた。
「俺も桜井に一票!」
 微笑みながら、森が手を上げる。
 ベンチから腰を上げた内村が、「じゃ、任せた」とか言いながらロッカーに向かう。
 最後に残った神尾を見てみれば、神尾はなんか照れくさそうに笑いながら、「がんばれよ、桜井部長!」なんて言いやがるし。
「あとは桜井だけだな。桜井は誰に入れるんだ?」
「ここまで来たら俺が誰に入れたって同じだろ。多数決なら、もう確定だ」
「それは違うよ」
 珍しく、森が強気に口を挟んでくる。
 穏やかな口調と表情は、いつもと同じだったけれど。
「これから一年間の、桜井の気合とか気分が違う」
 森の言う事は、もっともすぎるくらいにもっともで、だからこそ素直に受け入れるのが悔しかった。
 まったく。
 俺を引き下がれなくして、そんなに楽しいのかよ。
「じゃあ最初の仕事として、顧問に結果伝えてくるわ」
「全員一致で自分が部長に決まりましたって?」
「……おう」
 なんとなく、面倒ごとを押し付けられた感が否めない気もするけどな。 
 やっぱり、嬉しいだろ。どうしても。
「コートの準備、先にはじめておけよ」
「任せといて、部長!」
 部長部長連呼するなっつうの! ったく、恥ずかしいだろうが!
 俺は照れをごまかすために、みんなに背中を向けて部室を出る。みんなが着替えはじめる気配を、背中の向こうに感じながら。
 後ろ手にドアを閉めながら、閉まりきる前の最後の一瞬振り返れば、みんなの視線が俺に集まっていた。
 こっち見んなよ。
 聞こえないように口の中だけで呟いて、俺はパタリとドアを閉めた。

 あの人はいつも俺たちを率いてくれた。
 それなのに俺たちがあの人のためにできる事はいくつもなくて、ずっと悔しかった。
 けれど、もしかしたらあの人も、振り返ればそこに居た俺たちに少しは救われていたのかもしれないと、今ならちょっと思えるんだ。
 そう思うと少しだけ、今の自分が誇らしく思えた。


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テニスの王子様
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