本来そこにあるべきモノがないと言うのは、それだけで多大なショックを受けるものだけれど、緊急を要する場合には、そのショックは倍増してしまうものだ。 ポケットに手を入れた俺は、その手がすんなりと、何の障害物にもぶつからずに奥まで入ってしまった事に、少し動揺した。 ちょっと見栄を張ったかな。本当のところは、相当動揺した。 サイフがない。 どこかに落としてしまったわけじゃないから、少し安心だけどね。たぶん、玄関の靴箱の上にある。約束の時間に遅れそうになったから財布を手で引っ掴んで飛び出そうとしたのに、いざ靴を履いたら靴紐がほどけていて、結びなおすために一回そこに置いたんだ。 「あ、そうだ。サエ、こないだ借りた五百円、返すわ」 だからそう言ってバネが俺に五百円玉を一枚放り投げてくれた時、俺は一瞬だけバネを神様のようにあがめた。そして、この間の大会帰りに、サイフを忘れたバネに五百円を貸してやった自分自身の気前良さに、深く深く感謝した。 情けは人のためならず。ああ、この言葉は、きっとこう言う時に使うんだ。 「サエさんサエさん! 約束の、たこ焼き!」 夏の長い昼間が終わって、空には星が見える時間帯だけれど、俺たちの視界は十分明るい。今日は夏祭りの日で、そこかしこに提灯とか、沢山の明りがある。 長く続く屋台の列の中に、剣太郎はひとつ、たこ焼きの屋台を見つけて、そこを指差しながら俺の腕を引いた。 「判ってるって。そう慌てるなよ」 そう。俺がサイフを忘れた事に過剰に慌てたのは、剣太郎との『約束』のせいだ。 今日の部活の最中に、剣太郎が「このゲームで勝った方が今日のお祭りでたこ焼きをおごる事にしよう!」って賭けを持ち出してきたわけさ。それはいつものプレッシャーに+αして、いっそうゲームを楽しむためだったのか、単純にたこ焼きが食べたかっただけなのかは判らないけれど。 ああでも本当に助かった。五百円あれば充分たこ焼きが買える。賭けを受けといて(しかも負けておいて)、たこ焼きを買ってやらなかったら、しばらく言われそうだからなあ。 俺は握り締めた五百円玉でたこ焼きを買って、剣太郎に与えてやった。 「わーい、ありがとう、サエさん!」 剣太郎は嬉しそうにうけとって、間髪入れずに頬張る。 ああ、焼たてだから熱いに決まってるだろ。そんなもの言いたげな目で俺を見るなよ。あと先考えないお前が悪いんだからな。なけなしのお金で買ったたこ焼きなんだから、ひとつでも無駄にしたらどうなるか判ってるんだろうな。 俺の心の訴えが通じたのか、剣太郎ははふはふさせながら、ようやっとひとつめのたこ焼きを飲み込む。その直後、不思議そうに首を傾げてから俺を見上げてきた。 「サエさんは、何か食べないの?」 お前のそう言う無駄に地雷を踏むところ、大好きだぞ、剣太郎。 相手が俺じゃなければな。 「ああ、いいんだ、俺は」 本当の事を言えばそれですむと言うのに、俺はこの時なんとなく、サイフを忘れた事実をごまかしたい気持ちになった。 真実を知ったら、さすがの剣太郎でも、俺に同情してたこ焼きのひとつふたつ分けてきそうだからな。ただでさえ一年生部長に負けて凹んでるんだから、これ以上凹む理由を増やしたくないって言うのが正直な気持ちだよ。 だからって。 「……ダイエット中だから」 この理由はないだろう、俺。 「ダイエット!? サエさん、ダイエットなんかしてるの!?」 あれ。意外と食いついてくるな。笑われて終わりかと思ったけど。 よし、このまま強行するか。 「俺はな、スポーツマンとしてももてる男としても、一番大事なのは体型維持だと思っているんだ」 「! もてる男!?」 失敗。食い付きすぎた。 「じゃ、じゃあボクも……」 「お前はまだダメだぞ。身長を伸ばす事を優先に考えないと。背の高い男の方がもてるからな」 「うっ……」 剣太郎は何やら葛藤しているのか、しばらくたこ焼きと俺を見比べていたけれど、やがて方向性を定めたらしく、ふたつめのたこ焼きを口の中に放り込んだ。 うん、上手くごまかせたな。一時はどうなる事かと思ったけど。 ふう。 「サエでも頭の悪いごまかし方、するんだね」 剣太郎が俺のそばから離れた瞬間を狙うかのように、背後からくすくすといった笑い声。 「頭悪くて悪かったね」 「いやいや、その方がおもしろいからもっと頭悪くなってよ。あ、わたあめ、食べる? 半分分けてあげようか?」 亮は振り返った俺の口元に、ずいっとわたあめを突き出してきた。 ほんのりと鼻にとどく、甘い香り。 「いらないよ。ダイエット中だからな」 俺が負け惜しみで返すと、亮は一瞬だけ呆けてから、またくすくすと笑いはじめた。 ……残ったお金で、何を買おうかな。 |