恋心・前

 フロド・バギンズ氏が袋小路屋敷を売り払い、十代から二十代の初めまでを過ごしたバック郷に移住すると言う話は、ロージーも耳にしていた。
 なぜ彼が突然そんな事をする気になったのか。普段のロージーならば、色々通り過ぎる噂に耳を傾け、適当な憶測と真実との適合性を計る事に興味を注いでいたかもしれない。ロージーも一般的ホビットとさして変わらず話をする事が大好きであったし、「ホビット村のバギンズ氏」と言えば変わり者の代名詞であったから、予想もつかないおもしろい理由が飛び出してくるかもしれないと期待する価値は充分あった。
 しかしロージーの心中はそれどころではなかった。フロド・バギンズと言う、一生さほど関わりあう事が無いだろう(と思っていた)青年の事などこの時ばかりはどうでもよかった。彼よりも気になるのは、袋小路屋敷に仕える庭師のサムワイズ・ギャムジーの事だ。
「あら、そうしたらサムはどうするのかしらねえ」
 誰か知ってはいないかと、さりげなく話題に出してみた事もあるが、皆それよりもバギンズ氏の動向・思考の方が気になるらしく、すぐに元の(フロド・バギンズに関する)話に戻ってしまう。
「サムはどうするのかしらねえ」
 誰も聞いてくれないので、仕方なくロージーは自身に尋ねてみた。
 新しい袋小路屋敷の主人に仕えて、袋小路屋敷の手入れを続けるのかしら(そんなばかな)。
 ではバギンズ氏との縁は「はい、これまで」と、庭師はやめてしまうのかしら(それもなんだか、サムらしくない)。
 では、フロド・バギンズと一緒にバック郷に行って、新しい屋敷の庭の面倒を見る?
 最後のが一番サムらしいとロージーには思えた。サムはもう人生の半分を袋小路屋敷に出入りしながら過ごしているのだ。フロド・バギンズとずいぶん仲がいいし、離れがたいに違いない。
「離れがたい? 誰とよ。フロドの旦那とだけ?」
 胸の内に湧き出た、疑問だか不満だか判らないものを音に出すと、なんだかやりきれなくなって、ロージーは夜食も取らずに眠る事にした。

 サムがロージーの悩みを晴らしにコトン家にやってきたのは、フロド・バギンズの引越日をすぐ近くに控えた日の昼過ぎだった。彼を迎え入れたのはロージー自身で、玄関の扉を開けると、サムはにへらと笑い、間抜けな顔をいっそう間抜けにした。その笑顔は苛立ったロージーの心を少なからず慰めてくれた。
「どうしたのサム。何しに来たの」
「お別れを言いにだ、じいさんや、トムたちや、それからもちろんお前にもよ、ロージー」
 予想をしていた言葉であったのに、ロージーは自分で思っていたよりも深く衝撃を受け、彼の言葉を反復する事しかできなかった。
「お別れ?」
 サムは笑顔のままこくりと肯いた。どうやら彼はロージーの動揺などこれっぽっちも気付いていないらしい。のんきなものだ。なんだかロージーは腹が立って、頬をぷくりと膨らませたが、サムはそれにも気付かなかった。
「そうだ。おらはフロドの旦那についてバック郷に行く事にしただ。あそこに行くのはちいと時間がかかるからな、今までみてえにしょっちゅう会う事もできねえよ」
「どうして旦那と一緒に行くの? あんたの故郷をそんなに離れて」
「どうして? うーん、とにかくおらはそう決めただよ。フロドの旦那だって故郷をうんと離れる事になるしな。旦那の新しい庭を綺麗に花咲かせて、旦那の世話をするだ。で、ロージーよ、じいさんやトムたちはどこだ?」
 サムはロージーの横を通り過ぎ、きょろきょろと家の中を見回しはじめた。サムにとってはあいにくだったかもしれないが、ロージーにとっては幸いにも、今家の中にはロージーと母親しかおらず、ロージーは振り返ってサムの背中を呼び止めた。
「それだけなの? サム」
「なにがだ?」
「わたしに言う事はそれだけなの、と聞いているのよ」
 訊ねると、サムはきょとんとして目を見開き、じっくりとロージーを眺めてきた。ロージーはがらにもなく気恥ずかしくなって、サムから顔を反らした。
 別に何を言ってほしいとか、そう言うわけではないけれど。
 たとえば、そう、たとえばよ。その日に焼けて、更に泥に汚れて真っ黒な手を差し出して、「ロージーよ、おらと一緒にバック郷まで来てくれねえか」とか言ってくれたら、考えない事もない。兄のトムはサムの妹マリーゴールドと最近いい感じだし(サムの事だから気付いていないだろうけど)、三人の弟達もすっかり大きくなったし、ロージーがどこかに出て行っても、さして問題はないはずだ。
「ああそうだ、言い忘れてたな」
 サムは歯を見せながらにかっと笑って、腹のあたりの服で手をごしごしと拭くと、ロージーの前に差し出した。
「ロージー、元気でな」
 ロージーはとにかく驚いて、でも現実はそんなものかもね、などと思いながら、サムの手を取り握手をする。そして、ロージーの母に挨拶をすると、サムはコトン家を出て行った。
 ロージーはその日なんだか無性に腹が立って、夜食どころか夕食も食べずに眠ってしまった。

 サムがフロド・バギンズと共にホビット村を去って、どれほど後の事であったか。堀窪に引っ越したフロドとその庭師サムが、新しい家には住んでおらず、メリアドク・ブランディバックやペレグリン・トゥックと共にホビット庄の外に行方をくらましたと噂話が流れてきたのは。
「変な黒い連中が探している」以来しばらくバギンズ氏に関わる噂話はとんと流れてこず、引っ越したばかりだからおとなしくしているのかね、とか、ブランディバック一族全体がおかしいから目立たないんだよ、とか、勝手な話を捏造して時々話にはのぼっていたものの、もっぱら新しい袋小路屋敷の主人の話ばかりをしていたので、ひさびさの大きな話題に水の辺村やホビット村中がもちきりだった。やっぱりフロド・バギンズはビルボ・バギンズの意志を丸ごと引き継いだ変わり者だ! と。
「サムも一緒に行ったんだなあ! あいつは袋小路に通うようになってからバギンズのふたりの影響を受けて、エルフとか言うのや外の話に興味を持つようになっていたけど。まさか本当に外に行っちまうとは!」
「バギンズの旦那にむりやり連れ出されたとかじゃなくか?」
「それはないわよ」
 兄弟たちの憶測に、ロージーはつい口を出した。
「サムはフロドの旦那の行く所なら、どこにでも喜んでいくのよ」
 ロージーには、あのうっかり口を滑らすサムが、ホビット庄を出て行く事を頑張って誰にも秘密にしていた事がその証に思えた。
 誰にも秘密に。実の父であるとっつぁんにも、ロージーにも。
 胸がちくりと痛んだ。


恋心・後
指輪物語
トップ