恋心・後

 冬が過ぎ、暖かく変わりはじめ、やがて春がやってくる。
 甘い花の香りが空気に混じるので、ロージーは呼吸をする度に、否応無しにサムの事を思い出さずにいられなかった。サムの育てた花は特別綺麗で、とくべつかぐわしい香りを漂わせていたから。
 今、袋小路には彼らが居た頃の面影はない。花や草は適当に育ち、以前の美しさを損なっている。庭の変貌ぶりもそうとうなものだが、屋敷の中の腐り方は最悪だ。
「バギンズの旦那や、サムが帰ってきてくれればいいのに」
 サムの方はともかく、フロド・バギンズの帰還は誰もが祈っている事だった。
 けれど皆は言っている。秋にホビット庄を出て行ったきり帰ってこない四人は、見た事も聞いた事もないような地で、ぽっくりのたれ死んだに違いない。可哀相になあ、などと。そしてその中でもフロド・バギンズに関しては、他の三人の倍以上話題に上った。彼が袋小路を売らずにずっと住み続けてくれていれば、自分達も可哀相にならずにすんだのになあ、と。
「サムは帰ってくるわよ!」
 彼らの死が話題に上るたび、ロージーは叫んでいた。根拠のない噂である限り信じる気はなかった。サムは生きていて、いつか帰ってくると信じようとした。ホビット庄は不穏な空気に満ち満ちていて、僅かな希望でも信じていないとやりきれなかったから。
「はやく帰ってきなさいよ、サム。堀窪とかでいいのよ。わたしの所じゃなくても」

 帰還は突然だった。
 宵深くだと言うのに、村中に響き渡る角笛の音。何かの呼び声。眠りについていたコトン一家は全員飛び起き、トム・コトンと三人の息子達は武器を片手に飛び出していった。「ここで待ってろ」と言われはしたものの、黙って待っているにはあまりに外の様子が気になり、ロージーは家を飛び出した。父や兄たちの言う通り、その辺をうろつきまわるのは危険かもしれないが、玄関の外に出て辺りを確認するくらいならいいだろう。傍らには母が居て、弟のニブスが熊手を構えてふたりを守ってくれる。
 予感がした。謎の支配者によって闇に覆われようとしているホビット庄に、何らかの救いが現れるような。しかしその救いが何であるのか、ロージーに判るわけもなかった。
「彼」が目の前に現れるまでは。
「おらだ!」
 ホビット庄でのんきに暮らしていた頃からは考えられないような立派な格好をして、馬にのって現れて。声を聞いても彼がサムであると信じられなかった。サムを死んだと決め付けていた母やニブスは余計にだろう。
 あんまり嬉しすぎて、嬉しいと上手く言えなくて。
「それからロージー、お前もよ、ちょっくら会ってみようと思ったのよ」
 と、彼は心なしか声を震わせながら言ったのだ。
 なんてずるい男かしら。今までさんざんわたしをないがしろにしていたと言うのに、こんな時にフロドの旦那を置いてわたしに会いに来るなんて。今までたくさん抱いていた不満なんか、すべてふっとんじゃうじゃないの。
「じゃ、とっとと行っといで!」
 などと、笑顔で送り出せてしまうくらいに。

「あのなあ、ローズ」
 多忙を極めつつあるサムは、春の近付いたある夕方、ロージーひとりを呼び出した。傷付いたホビット庄や、袋小路屋敷の修復に駆けずり回っていた彼が、どうやってこんな時間を作ったのだろうと疑問に思いながらも、ロージーはとことことサムのあとを着いて行く。
「おらはフロドの旦那のそばに居て、ずっと旦那のお世話をするって決めてただ。旦那が大変な旅に出ると言っていたから、最後まで着いて行こうとな。だからおらは、ずっと秘密にしていただよ」
「あんたが? 秘密を? わたしは昔あんたをうっかり者だと思っていたけど、ほんとうに秘密が上手くなったものね。旅に出る事もわたしは知らなかったわ」
 サムは困ったように俯いた。
「ローズ、まだその事を怒ってるだか?」
「当然怒っているわよ。あんたはフロドの旦那とバック郷に行くとわたしに言ったわ。だけどあんたが行った所は、バック郷よりずっとずっと遠い所だったわ。あんたはわたしに嘘をついたのよ。それで? あんたは今度はどんな驚くべき秘密をわたしに明かしてくれるの?」
「それに比べれば、たいした事ないかもしれないだが」
 もともとサムは説明が上手い男ではないと思っていたが、今はさらにひどかった。日に焼けた頬をほんのり赤く染めてロージーから顔を反らし、もごもごと聴き取れない大きさで何かを言っている。「なんなのよ」とせかしてみると、サムは頭をかきながら振り返った。
「ローズ、おらはお前がずっと前から好きだっただよ。それをずっと前から秘密にしてた」
 数秒間を置いて、ロージーも頬を染めた。彼からその言葉を貰いたいと期待していたのはもう一年以上も昔の事で、最近はもうすっかり諦めていた。だからこそ余計に照れと喜びが増したのだ。
「なんでもっと早く言わなかったの」
「おらはやらなければならない仕事があっただ。フロドの旦那に着いて行く事は、とても危険な事だった」
「だから言わなかったの? わたしを待たせないために? でも、あんたのもくろみははずれて、わたしはずっと待ってたわよ。あんたが帰ってくるのと、あんたがそう言ってくれるのを。ついでに結婚を申し込んでくれるのもね」
 勢いで口を滑らせてしまった事に驚いて、ロージーは自分の口を両手で塞いだがもう遅い。ちらり、と上目使いでサムの顔を覗いてみると、突然言われたサムの方がもっと驚いているようで、間抜けに口をあけてロージーを見下ろしていた。
「結婚、そうだ、おらもそれを考えなかったわけじゃねえ。だけどよ、ローズ、おらはフロドの旦那のお世話をしなきゃなんねえだ。その誓いはけしてやぶれねえ」
「そうねえ」
 ロージーは深いため息をついてから続ける。
「あんたは一年もむだにしたわ。なのにどうしてもっと待つの?」
「むだにしたと? そうは思わねえだが」
 少々不機嫌そうに反論してくるサムに、彼がロージーの言葉の意味を間違えて受け取った事を知った。
 ロージーはサムがフロドをとても大切にしている事を知っているつもりだから、彼がフロドと共にあった時間を否定するつもりはない。ただ、彼に知って欲しかったのだ。自分はそれでもサムを待っているのだと言う事を。気を使って悩むだけむだなのだと。
「別に悩んでいてもいいけど。わたしがあんたを待ってあげるのはもうちょっとだけよ、サム」
 ロージーはにっこり微笑んでから、そっとサムにキスをした。りんごのように真っ赤に染まったサムの顔を覗き見て、くすくすと笑い声をもらしならが言う。
「じゃあね、サム! まだ仕事のこってるんでしょ、がんばりなさいよ!」
 ロージーはくるりと背中を向けて手を振り、サムのそばを離れた。しばらく走ってから振り返ると、まだ同じ所に立ったまま頭を抱えているサムの姿が見え、今度は真剣に嬉しくて微笑みがこぼれてきた。

 そうね、この嬉しさに免じて、もうちょっとだけ待ってから教えてあげましょう。
「あんたはわたしより旦那の方が大切なんだとずっと思ってたから、旦那と比べられないくらい大切に思ってくれている事でも、けっこう嬉しい」ってね。


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