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四章



 メイヴェルは長く暗闇の中にいた。
 静かで暗いだけの意識が、はじめに感じたのは痛みだった。きりきりと、絞りあげられるような痛みを頭に感じる。しばらくは呻き苦しんでいたのだが、ある時ふと気付いて目を開けると、周囲は明るくなり、頭痛はあっさりと引いていった。
 明るくなったと言っても、眩しくはない。むしろ、薄暗いほどだ。周囲を見回すと、木片を組み合わせて作ったと思わしき壁が見え、メイヴェルから見て真横にある小さな窓から差し込むわずかな太陽の光だけが、部屋を照らす全てだった。
 流れ込んでくるゆるやかな風の心地よさに酔いながら、ゆっくりと目を伏せたメイヴェルは、唐突に閃く。窓があるのは横ではなく、上だ。自分が、何か狭苦しい台のようなところに横たわっているから、横に見えてしまったのだと。
 全身にだるさが残っていて、目を開くのも億劫だったが、起きなければ、とメイヴェルは思った。こんな、どこだか判らない場所で眠り続けるなど、危険極まりない。
「何……?」
 しかし、起きようとしても、まったくと行っていいほど腕の自由がきかなかった。
 支えなく起きあがるのは、少なくとも今のメイヴェルにはたいへんな困難だ。このまま起きあがる事をさっさと諦めると、今度は腕が自在に動かない理由を探ろうとした。
 今度は簡単だった。腕が、後ろ手に縛られているのだ。重なった手首に、柔らかな感触のものが何重にも巻き付いていて、固定されてしまっている。
 背筋に冷たいものが走る感覚と言うのは、こう言う事なのだろうか。などと、妙に冷静に考えている自分がおかしかったが、そうでもしないと自我を保てないほど、メイヴェルは今の状況に恐怖を感じていた。
 一昨日――メイヴェルが知らない間に日付が変わっていなければ、だが――の夜を思い出す。蜜蝋の灯りと言う、絶対に安全なものに守られて眠っているつもりでいたのに、目を開けるとその灯りが全て消え去っていた、あの恐怖に似ている。あの日、メイヴェルが目覚めるのがもう少し遅ければ、どうなっていたか――
 そうだ、このままでは駄目だ。メイヴェルは腕を何とか自由にしようと、力を込めたり、動かせる限り腕をねじったりしてみる。たが結び目は固く、メイヴェルの力ではほどけそうにない。では切る事はできないかと、周りを探す。刃物があれば好都合だが、何か尖ったものでいい。時間をかければ、なんとかできるかもしれない。
 しかし、見回せる限りにおいて、役に立ちそうなものは何ひとつ見つからなかった。ならば、とメイヴェルは身をよじり、体勢と場所を変えようとする。今の状態では見えない場所に、希望がある事を願って。
「っ……」
 無理に動いたせいで体勢を崩したメイヴェルは、台の上で体を支えられなくなる。落下し、体の側面を打ち付けた。大した高さではなかったが、身構える事ができなかったため、一瞬息が詰まるほどの痛みが走る。
 折り曲げた膝を胸に引き寄せ、て可能な限りうずくまり、深呼吸を繰り返す。そうして、痛みの波が引くのを待っていた時だった。扉が開き、人が入ってきたのは。
「メイヴェル!」
 慌てて駆け寄ってきたのは、父だった。
 メイヴェルの体を抱き起こす腕も、打ち付けた箇所をさする手も、いつものように優しい。けれど父がここに居て、拘束されている事には何の疑問も抱いていない事が、全てを物語っているとメイヴェルは思っていた。
「どう、して」
 メイヴェルは問う。いつもと変わらぬほほえみを浮かべる父を見上げながら。
「どうして、こんな事になっているの」
「すまないね、メイヴェル」
 ウォレスは悲哀の色を強く浮かべる目を細めた。
「シェーラが望んだ事なんだ」
「どうして」
「もうすぐ闇夜がやってくる。私はそろそろ帰らなければ」
「お父様!」
「さようならだ、メイヴェル」
 ウォレスは最後に一瞬だけ、メイヴェルの体を強く抱き締める。
 よく判らなかった。押し殺した嗚咽や、メイヴェルの肩にこぼれ落ちてくる温かな液体や、抱き締める腕にこもるきつい力に、名残惜しいと思う心が強く現れているのに。シェーラが望んでいる? これは母の望みであって、父の望みではないと言う事か? 父はただ、娘の命よりも妻の望みのほうが重いと思っていると言う事だろうか?
 それよりも。そう、こんな場所にメイヴェルをひとり放置する事が、母の望みだと言うならば、ヨシュアやアーロたちの言う通りだった、と言う事ではないか。
 信じていたのに。愛されていると、大切にされていると――血の絆だけではない、心の通った家族なのだと。
 けれど、母がメイヴェルの命を犠牲に己の望みを叶え、父がそんな母を支持しているのならば、仲の良い家族だと思っていたのは、メイヴェルだけだったのだろうか。
 それは、とても悲しい。
 とても悲しい事だ。
「許しておくれ」
 父の温もりが剥がれていく。
 ゆっくりとした動作でメイヴェルを横たわらせたウォレスは、同じだけゆっくりと立ち上がると、無言でメイヴェルを見下ろしてから、背を向けた。
「お父様」
 掠れた声で呼んでみる。
 ウォレスは動きを止めた。けれど、ほんの一瞬。振り返る事も、引き返す事もなく、離れていってしまう。
「お父様!」
 ウォレスの言動の中に存在しているためらいだけが、メイヴェルに残されたよすがだった。立ち去られたら、出て行かれてしまえば、終わりになってしまう。そんな絶望に耐えられるだけの心構えなど、メイヴェルにあるはずもなかった。
「お父様……!」
 最後の叫びも届かない。ウォレスの手が扉を開けようと取っ手にかかった時、メイヴェルは目を伏せた。現実を直視する事すら、できなかったのだ。
 だから、激しい音が鳴った時、何が起こったか判らなかった。
 メイヴェルはゆっくりと目を開ける。扉が開いていた。けれど父はまだ中に居た。開け放たれた扉に驚いた様子で、立ち尽くしている。
 そして、父の向こうには――
「メイヴェル!」
 アーロだった。
 走ってきたのだろうか。息を切らし、汗をかいている。戸惑う様子のウォレスを気にも止めない様子で駆け込んでくると、メイヴェルの拘束に手をかける。最初は解こうとしたが、すぐに面倒くさくなったらしく、引き抜いた短剣で切りにかかった。
「お兄ちゃん」
「よかった、間に合ったな!」
「どうして、ここに?」
「シェーラ様に聞いた。聞いたって言うか、半分くらい脅しだけどなー」
「なんで?」
「メイヴェルの居場所を聞くためなら、最悪暴力に訴えるつもりだったぞ。脅しくらい可愛いもんだろ」
「そっちの事じゃなくて……」
 なんで来てくれたの、と、聞きたかった。
 あんなに心配してくれて、闇の眷族と戦ってまでメイヴェルを守ってくれたアーロやヨシュアの事を、メイヴェルは信じなかった。両親を信じる事を選んで、勝手に離れてしまった。厚意を踏みにじったも同然なのに。
「なんで、来たの」
「は? 何言ってんだよ。そんなの、当たり前だろ」
 メイヴェルの腕を捉えていた布を引き裂いたアーロは、まばゆいほどの笑みを浮かべた。
「約束だろ。俺はお前を守るって、前に言ったろ。そばに居てやるって約束は破っちまったけど、今度こそ守るんだ。約束も、メイヴェルも」
 まだ、終わりじゃない。絶望じゃない。
 母に、父に、悲しい仕打ちを受けても、まだここにある。すがるべき絆も、希望も。
「お兄ちゃん」
「大丈夫か? どっか、痛いところないか?」
「……あるよ」
「本当か!? どこだ?」
 落ちた時に打ったところや、ずっと固定されていた手首も痛い。けれど、一番は。
「ごめんなさい」
 胸が痛い。息が詰まるほどの冷たさと、張り裂けそうなほどの温かさとを、同時に感じて。
 とてもひとりでは耐えきれない痛みだ。メイヴェルは目の前にあるアーロの胸に額を預けると、溢れる涙をこぼれ落ちるままにした。
「何で怒らないの!」
「は? 何で怒らないといけないんだよ。っつうか、逆に俺が聞きたいよ。なんで謝るんだよ!」
 アーロが、そう言う事を平気で聞いてくるからだ。だから、勝手に謝るしかないのだ。
 けれど、と、メイヴェルは泣きながら思う。メイヴェルのわがままをいつでも受け入れてくれる人に、こうして駆けつけれくれた人に、もっと伝えるべき言葉は他にある。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
 守ってくれて。
「ありがとう」
 一番心細い時に駆けつけてくれて。
「ありがとう」
 約束を忘れないでくれて。
「ありが……」
 四度目の感謝の言葉を紡ぐ途中で、メイヴェルは強く引き寄せられた。
 アーロはメイヴェルを温かく抱き寄せると、優しく頭を撫でてくれる。その手の温かさは、より奥の方から涙を引きずり出す力を持っていた。


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