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四章



 アーロたちがバレルの街にたどり着いた時には、太陽がかなり高い位置まで昇っていた。
 通りに立ち並ぶ民家のほとんどは、昼食の準備をしはじめたのだろう。胃を刺激するかぐわしい香りが、ふたりの鼻に次々と届く。
 だからと言って、どこかの店に立ち寄って胃を満たすほどの余裕は、時間的にも精神的にもない。アーロたちはひたすら走り、カドリーン家まで向かったのだった。
 念のため、ヨシュアは家の外に待機して様子を伺い、アーロだけが中に飛び込む事にする。
 玄関をくぐったアーロを最初に見つけたのはやはりシャナだった。はじめは戸惑った様子でアーロを見つめていたシャナの視線が、やがて金茶の髪に行き着く。それで思い出したのだろう、「ああ、コーラル様!」と叫びながら、懐かしそうに目を細めた。
「ご立派になられましたねえ。あんなにお可愛らしかったのに、ずいぶん凛々しくなられて」
「うんシャナさん久しぶり、そう言う嬉しい事言ってくれるのたぶんシャナさんだけだからもっとゆっくり話したいんだけど、今ちょっと急いでるから後でいいかな。メイヴェルと話がしたいんだ。帰ってるよね?」
 乱れた呼吸を整えながらアーロが訊ねると、シャナは困ったように頷いた。
「早朝に、一度帰ってこられましたよ。けれどまた出ていかれました」
「なんで」
「私は見送ってませんから、はっきり聞いておりませんが、朝帰ってこられた時は、『闇の眷族に狙われているからまたすぐに出ていかなければ』とおっしゃってたので、それが理由かと」
「いつ出ていったの」
「戻られてすぐだと思いますよ。なんせ、私が朝食を作っている間に、居なくなられてましたから」
「そうか。ありがとう!」
 アーロはそのまま家を飛び出そうとして、扉に手をかけたが、またすぐに家の中に振り返った。
「シェーラ様はどこに?」
「コーラル様、その呼び方、そろそろ改めてはいかがです。奥様も旦那様も、寂しがって……」
「ごめん本当にごめんそう言うの全部後にして!」
「居間のほうにいらっしゃるかと」
「ありがとう!」
 礼の言葉もそこそこに、アーロは居間に駆け込んだ。
 シャナの言う通り、そこにはシェーラが居た。くたびれた様子でソファに体を預けながら、こめかみを押さえる手で重い頭を支えていたが、乱暴な足取りで人が入ってきた事に異常を感じ取ったのか、アーロの入室と同時に顔を上げる。
「貴方……コーラル?」
 シャナと同様に、髪の色でアーロが何者かを識別したシェーラに、アーロはとりあえず頷いて応えた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
 シェーラは目を細めて微笑む。その表情が、今にも泣きそうに見えたのは、単なる願望なのだろうか。
「本当に、お願いした通り、<守護者>になってくれたのですってね。ありがとう」
「まだ半人前ですけどね。そんな事より、シェーラ様。メイヴェルはどこです」
 シェーラは背もたれに預けていた体を少しだけ起こした。
「一度帰ってきたけれど、出ていったわ。夜には闇の眷族にまた襲われるから、戻って貴方たちに守ってもらわないと、って……」
「本当に?」
 アーロが短い言葉でなお問うと、シェーラはわずかに戸惑いを見せた。すぐに俯いたのは、アーロの視線から逃れるため、だろうか。
 アーロは三歩ぶん距離を詰めてから、再度訊ねた。
「本当に、メイヴェルは、自分の足で、この家を出ていったんですか?」
「何を、聞きたいの、コーラル……」
「残念ながら、俺は貴女のコーラルではありませんけど」
 少しだけ語気を強めてアーロが言うと、シェーラは明らかに身を強ばらせた。
「本当の――最初のコーラルの話を、知っているの?」
「はい。先輩……ヨシュア先輩に、聞きました。あの人は、最初のコーラルと懇意で」
「ヨシュアは、貴方たちにどこまで話したの?」
「知っている事は全てだと思います。貴女が最初のコーラルを捨て、彼の心を踏みにじった事。あとは全て予測です。それが俺を拾ってコーラルと名付けた動機だろう事。メイヴェルの首にあの印を付けたのは――メイヴェルを闇の眷族との契約の贄にしたのは、貴女であろう事」
 アーロが言い切ると、シェーラは長いため息を吐いたがそれだけで、何も語ろうとはしなかった。
「本当は、メイヴェルは俺たちのところに戻ってなんかいないんでしょう。俺たちはメイヴェルに会っていないし、ここに来るまで色んな人に聞いた目撃証言の中に、ここに向かうメイヴェルの姿はあっても、戻るメイヴェルの姿はなかった」
「たまたまではないの?」
「シェーラ様!」
 たまらずアーロは、シェーラに怒鳴りつけた。
「俺は先輩の言葉を信じました。けれど、メイヴェルは違う。先輩の言葉を信じられなかったから……先輩よりも貴女を信じようと思ったから、ひとりで帰ってきたんですよ!」
 走ってきた事で乱れた鼓動は、この時すでに、ほとんど落ち着いていたはずだった。
 けれど、再び乱れはじめたのは、期待故だ。これ以上失望したくないとの願いが、アーロから冷静さを奪っているのだ。
「貴女のコーラルはもう居ないけれど、俺は、半人前とは言え<守護者>になってここに居ます。六年前の新月の夜に貴女が望んだ通り、闇の眷族を倒してメイヴェルを守ります。だから……だから、メイヴェルは今どこに居るのか、本当の事を教えてください。貴女にとっては、闇の眷族を倒されるのもまた困り事なんでしょうけど、今度こそ、子供を裏切らないでください。貴女の事を誰より信じた、メイヴェルだけは!」
 シェーラは無言で俯いたまま、しばらく自身の髪を撫でていた。メイヴェルと同じ、栗色の髪を――やがて、指に髪を絡ませたまま、堅く拳を握りしめた。
 瞳が潤み、下睫が濡れた。やがて頬を伝う涙が、唇の端を掠めた頃、シェーラはようやく口を開いた。
「最初は、私もあの子も助かる事が一番いいと思った。けれど、急に怖くなったのよ。貴方たちがあの闇の眷族を倒してしまったら……今のままではいられなくなるのではないか、って」
「闇の眷族と契約したのは、貴女で間違いないんですね」
 シェーラは小さく震えながら、けれどはっきりと頷いた。
「貴女が願ったのは、ウォレス様の心を得る事、ですね?」
「そこまで判っているのね」
 シェーラは目元を拭いながら、小さく笑みを浮かべる。それは、彼女自身をあざ笑っているかのように見えた。
「ただの予測ですよ。他に考えつかなかっただけで、当たっていたのはたまたまです。でも、それが貴女の願いだったと言うなら、どうして闇の眷族の妖力に頼ってしまったんですか。こんな事でもなければ、シェーラ様はやっぱり優しくて、綺麗な人だ。まがまがしい力に頼らなくても、男性の心を掴む事くらい……」
「そうね。時間をかければ、できたかもしれない。でも、時間がなかったの。だってあの人は、ウォレスは――」
「すでに他の女性のものだった?」
 シェーラは頷く代わりに、ゆっくりと瞬きをした。
「そうよ。あの人の心にはすでに決まった人がいた。それでも私は、あの人が欲しかった。あの人を手に入れて、安定した生活が送りたかった」
 シェーラは体を折り曲げ、小さく縮こまり、しきりに頷いた。何度も、何度も、まるでここに居ない誰かに許しを請うかのようだった。
「最初に結婚した相手はね、ろくでもない男だった。結婚してしばらくすると態度が豹変して、暴力をふるうようになったし、ろくに仕事もしなくなって。子供が居たし、何年かは我慢してなんとかしようと思ったけれど、耐えられなくなって逃げ出したの。息子を置いて行くにはしのびないと思って連れて逃げたけれど、すぐに重荷になった。あの男の子供だと思うと、可愛いとはとても思えなかった。憎らしいくらいだった。だから、あの<守護者>の女性が、『弟子にしたい、預かりたい』と言ってくれたのは、あの子にとっての幸運だったのよ。あのまま一緒にいたら、私、この手で殺していたかもしれないもの」
 涙に濡れる虚ろな瞳は、彼女自身の白い手のひらを見つめる。
 その優しい手は、幼い子供を傷付けた事があったのだろう。シェーラははっきり語らなかったが、アーロは確信していた。今のシェーラと、語られる過去のシェーラに、実の母親の面影が少し重なったのだ。
「そうして出会ったのがあの人。穏やかで誠実な人で、暴力なんてけしてふるわない。すぐに好きになったわ。私、幸せになりたかったの」
 シェーラはふいに立ち上がり、アーロに駆け寄ると、アーロの両肩を掴み、強く揺さぶった。
「貴方にだって判るでしょう? 雪の中ひとり放り出された貴方なら、温かな家庭がどれだけ大事か判るでしょう? よりどころのない女がひとりで生きていくのなんて、子供がひとりで生きていくのと大して変わらないのよ。余裕がなかったから、人を蹴落とさなければ生き残る道がなかったの。辛かったのよ、私は――」
 今になってアーロは気付く。これまでのシェーラは、けして嘘を重ねてなどないのだと。ただ、自分に都合の悪い事を、何ひとつ語ってこなかっただけなのだと。
 だから今、無様にすら思えるほどの感情を語るシェーラを見下ろしながら、アーロは安堵する。この人は心底悪い人なのではなく、ただ弱い人なのだろうと思えたからだ。だからと言って許していい訳ではないのだろうが、許す人が居てもいいのだろうと思えたのだ。
 だが、その役目を負うのは、アーロ自身ではない。
「そうして、どうなったんでしょうね。貴方がウォレス様を奪ったせいで、残された女性は」
 シェーラは動きを止め、無言でアーロを見上げた。
「偽りの愛情と温かな家庭を手に入れて、貴女は幸せになった。けれど、貴女の踏み台になった人が居る事に、気付いていないわけではないんでしょう?」
 ふらり、と、シェーラの体が大きく揺れる。
 アーロは今にも崩れ落ちそうなシェーラの腕を掴み、引き上げる。
「はじめて会った日に、俺を見て驚いていましたよね」
 シェーラはぎこちなく頷いた。
「俺の髪の色が、ウォレス様と同じだから」
 シェーラはもう一度頷いた。
「シェーラ様が俺を利用してごまかしたかった罪悪感は、ふた」
「コーラル!!」
 アーロはシェーラを手放した。
 今度こそ崩れ落ちたシェーラだが、顔だけはしっかりと上を向いていた。見開いた瞳はすでに乾ききっていたけれど、まなざしはアーロに貼り付いたままはがれなかった。
「教えてください、シェーラ様」
 囁くように、アーロは問う。
「メイヴェルは今、どこです」

 話を聞くだけにしては、時間をかけすぎたとアーロも自覚していた。
 だから、家を出てすぐに目に入ったヨシュアが、今にも飛び込もうとしていたのを見て、「待たせてすみません」とまず謝った。きっと心配かけただろうから、その点についても謝るべきかと考えたが、それはなんとなくしゃくなのでやめておく。
「で? メイヴェルちゃんが今どこに居るか判ったのか?」
「街の外、俺たちが来たのと反対側の街道を進んで少し脇道に入ったところに、小屋があるらしいんですけど、そこに連れてったそうです」
「何でそんなところに」
「一昨日の晩に先輩がメイヴェル連れて逃げちゃったから、闇の眷族にさんざん脅されたみたいですよ。で、新月の晩が来た時に、その小屋に約束の捧げものがなかったら、お前を食うと言われた、と」
 ヨシュアの眉間に、一気に皺が寄った。
「あの女、それに従いやがったのか」
「あ、先輩、昨日シェーラ様に会ったんですよね。それで、一度は手を引いたらしいんですよ。でもやっぱ怖くって、どうしようかと思っていたところにメイヴェル自ら飛び込んできて、つい、って事らしいです」
「お前、冷静だな。腹立たないのか」
「先に聞いていた事をそのまま伝えてるわけですから、今はじめて聞いた先輩よりは冷静で当たり前でしょう。でも、それだけっすよ」
 言ってアーロは懐から財布を取りだし、ヨシュアの目を引くために小さく揺らした。
「歩いて行ったら夜までに間に合わないかもしれない距離だそうで。馬でも借りましょう。そのための金は、出させましたから」
「お、お前にしてはいい仕事したな」
「さすがに、腹立ってますから」
「妹ちゃん大好きだもんな」
 理由はそれだけではないんですけど、と返すのも面倒くさく、アーロは笑ってごまかした。


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