INDEX BACK NEXT


四章



 靴の裏から伝わってくる石畳の感触が、少しずつ目的地に近付いている事を教えてくれる。
 道に迷わないか不安だったメイヴェルだが、なんとか自分の力で、アーロに連れられて歩いた道を逆に辿る事ができた。ヨシュアとの合図に使った背の高い木が、森の中からも見つけられたおかげで、方向感覚が狂わずにすんだのも大きかった。
 無事に街道に出られたので、あとは街に戻り、家に帰るだけだ。ここまで来れば、もう道に迷う事はないだろう。メイヴェルは喜びつつも、やはり後ろ髪ひかれる思いもあったので、一度だけ来た道を振り返った。
 アーロやヨシュアに何も言わずに出てきてしまった事、燭台を勝手に持ち出してしまった事は、申し訳なく思っている。けれどメイヴェルにはどうしても、母を――両親を疑う事などできなかった。どうしても帰りたかった。帰って両親に会い、確かめたかった。
 門をくぐって街の中に入ると、まばらに人の姿が見えはじめる。まだ朝早い時間帯だが、市場は賑わいはじめているのだ。街に帰ってきたのだと言う実感が湧いてきて、メイヴェルは腹の底から安堵感がせり上がってくるのを感じていた。
 昨日の追っ手の事を忘れたわけではないので、できる限り人通りが多い道を行く。そのほうが見つかりにくいと考えたからだ。変装でもしたほうがいいのだろうかとも考えたが、あいにくメイヴェルは化粧道具すら持っていなかったので、それは不可能だった。気休めにと、髪を結んで印象を変えてみたが、悪あがきにもなっていない気がした。
 幸いにも、誰かに捕まる事も追われる事もないまま、メイヴェルは家の前までたどり着いた。ヨシュアに連れられて飛び出してから、一日半ほどしか経過していないはずだが、すでに泣き出したいほど懐かしい。
 門を開けるまでは、緊張が先立って、ゆっくりとした動作だったのだが、そこからはもう止まらない。長々と歩いて疲れた足は、痛みさえ訴えはじめていると言うのに、気付けば力一杯地面を蹴って走り出していた。
 玄関扉を開けると、ちょうど近くを歩いていたらしいシャナが、ひょいと顔を覗かせる。「まあ! メイヴェルお嬢様!」と彼女が叫ぶと、すぐに足音が響きだした。
 駆けつけてきたのは、もちろん両親だ。ふたりとも疲れきった顔をしている。少しやつれているように見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。
「メイヴェル……」
「メイヴェル!」
 先に駆け寄ってきたのは父のほうで、迷いなく抱きしめるその腕の力は、少しきつい。感極まるあまり、力の制御ができていないのだ。
「いったいどこに行っていたんだ……!」
 怒鳴る父の声は厳しかったが、語尾を震わせるものが愛情なのだと伝わってきたので、メイヴェルは少しも怖いと思わなかった。
「ごめんなさい、お父様。心配かけて」
「心配したさ! あんな夜に行方知れずになったから、どうなってる事かと」
「ごめんなさい……!」
 メイヴェルは力一杯父親にしがみつき、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返した。
 勝手に居なくなる事、そのまま連絡をとらない事が、どれほど相手に心労を与えるか、メイヴェルは嫌と言うほど知っている。その上、こんなにも温かく抱きしめてくれる人を、わずかなりとも疑ってしまったのだ。心底申し訳なく、適当な謝罪の言葉が浮かんでこなかった――いや、どんな言葉を尽くしたところで、許されはしまい。
「ごめんなさい」
 もう一度力強く謝罪の言葉を口にすると、別の温かな手が、メイヴェルの肩に触れる。父の大きな手とは違う、柔らかな白い手だ。
「無事に帰ってきてくれて良かった」
 母もまたメイヴェルを抱きしめ、メイヴェルの肩に顔を埋める。耳にかすかに届くのは、嗚咽だろうか。何も言わずに肩を震わせる母を、メイヴェルは目を細めて見つめた。
「今までずっとひとりで居たのかい?」
 父に問われ、メイヴェルは首を振った。
「一昨日の夜にね、闇の眷族に襲われたのだけど、ヨシュアが助けてくれたの。それから、ずっと一緒だった」
「ヨシュアが? どうやって助けてくれたんだい?」
「ヨシュアは、<守護者>だったの。それから、お兄ちゃんも、帰ってきてて……お兄ちゃん、私のために<守護者>になろうとして、ずっと居なかったのね。それで、お兄ちゃんも、<守護者>になってて」
「そうか。コーラルは帰ってきていたのか」
 コーラルじゃなくてアーロだけど、と説明するとややこしくなりそうなので、メイヴェルは頷くだけにした。
「それで、貴女はひとりで帰ってきたの?」
 今度の問いかけは母からだった。
「うん」
 ふたり、特にヨシュアに「帰りたい」と言ったところで、反対されるに決まっている。そう思ったから、メイヴェルはこっそりひとりで抜け出してきたのだ。
 けれど、今になって思う。やはり、アーロやヨシュアを頑張って説得して、一緒に戻ってくるべきだったと。ふたりがこんなにもメイヴェルを心配して、帰還を喜んでくれているところを見せれば、あんな腹立たしい疑いなど、一気に吹き飛んだだろうと思うのだ。
「私が闇の眷族に狙われるのは、しょうがない事みたい。それで、今夜は新月だから、絶対に追われる事になるから、夜になるまでにお兄ちゃんたちのところに戻る。ここにいたら、お父さんお母さんにも迷惑になると思うし」
「そんな言い方はよしなさい」
「で、でもね、お兄ちゃんたちも、守る相手は少ないほうが負担が楽だと思うの。だから――」
 言いながら、迷いが生まれたメイヴェルは、言葉を噤んだ。
 勝手な事をしたメイヴェルを、ふたりは迎え入れてくれるのだろうか?
 ふたりよりも両親を信じたメイヴェルの行為を、裏切りと感じたかのではないだろうか?
 だとすれば、許してもらえないのならば、メイヴェルはひとりで戦わなければならない。素養と魔力はこの身に宿っているとは言え、まだ何もできないに等しいと言うのに。
 メイヴェルは震えはじめた己の体をきつく抱きしめた。
「どうしたメイヴェル。寒いのかい? 外は寒そうだからな」
「ううん……うん、そうかも」
 抱えている恐怖を言葉にするのも両親に伝えるのも、より恐ろしくなるだけな気がして、メイヴェルはごまかす事にした。
「とりあえず、夜までまだ時間があるから、少しくらい休みなさい。疲れただろう?」
「うん」
「シャナ、何か温かい飲み物を用意してちょうだい」
「判りました、奥様」
「さ、メイヴェル、中に入りなさい」
 メイヴェルは笑顔で頷いて、母親に促されるまま居間に入る。
 不思議と、小さな事ひとつひとつに心が動かされた。見慣れた風景が、こんなにも心強いなんて知らなかった。いつも座っているソファの柔らかさを優しく感じた。花瓶に生けてある花が明るく見えた。
「はい、メイヴェル」
 お茶の器に描かれた花と蔓の模様の美しさとか、温かな湯気に乗って届く香りの芳醇さにまで感動していると言ったら、両親は笑うだろうか。
 そっと唇を寄せ、軽く息を吹きかけて冷ましてから、ひと口飲み込む。温かい。おいしい。単純な誉め言葉が頭の中を駆け巡る事が、とても幸せな事に思えた。
「お腹は空いてないのかい?」
「少し」
「そうか。シャナ、急で悪いけど、メイヴェルの朝食を頼むよ」
「お任せください。急いで用意しますよ」
「ありがとうね、シャナ」
 思い返せば、昨日の昼以降ほとんど何も口にしていない。緊張のせいで忘れかけていた空腹に気付いてしまい、メイヴェルは胃のあたりを押さえる。すぐにでも鳴り出してしまいそうだった。
 一昨日まで当たり前だった現実が、一時的とは言えこうして戻ってくると、この一日半の間に身の回りで起こった出来事の輪郭が、急にぼやけてくる。まるで夢であったかのように、現実とは遠いところに感じはじめていた。
 それも疲れているせいかもしれない。昨日はたっぷり眠ったはずだけれど、歩き続けたせいか、また眠くなってきた。視界が歪みはじめてきて、メイヴェルは茶の器を手放し、目元を押さえる。
「メイヴェル?」
 ソファが少し沈む。かけられた声と気配から察するに、母がメイヴェルの横に座ったのだろう。
「少し……眠くて」
「そう? なら無理せず、休んでいいのよ」
「うん。そうする。ちょっとだけ……ご飯できたら、起こしてくれていいからね」
 メイヴェルは目を伏せた。それから少し甘えたくなって、母に寄りかかった。柔らかな肩に頭を預けると、母の腕は優しくメイヴェルの頭を撫でてくれる。
「どうして戻ってきてしまったの」
 母の震えた声は、夢の中のものだったのか、現実のものだったのか。
「もう諦めようと、ようやく思えたところだったのに……」
 どちらにせよ、聞き取れた言葉の意味は、まったく理解できなかったけれど。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.