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三章



 目が覚めた時に感じた周囲の明るさが、目を閉じる前とほとんど変わりがない事に、メイヴェルが違和感を覚えたのは一瞬だ。眠った時間が短かったわけではない。土壁に囲われた空間の中心で淡い輝きを放つ炎が、蝋燭の長さをやや短くした以外に、変わるはずもないだけだ。
 メイヴェルはゆっくりと体を起こし、体を伸ばす。アーロに借りた野宿用の薄い毛布にくるまっていたが、それでも地面は固すぎて、体の節々が痛い。熟睡できたのは、睡眠不足と疲労が重なったからこそだろう。
 はやく家に帰りたい、との願望が、より強まる。けれど、慣れなければいけないのかもしれない、とも思う。アーロが語る「師匠」が、どの辺りに住んでいるかまだ聞いていないが、アーロが戻ってくるために野営に必要な道具を揃えていたところから考えるに、それなりに遠いところのような気がするのだ。
 メイヴェルは周囲を見回した。眠りに落ちる前には居たはずのアーロが、視界の中に居なかったからだ。だが、振り返っても見あたらない。簡易な食事をすませた後、まだ腹を空かせていた様子だったから、何か食べ物を探しに行ったのだろうか。
 そう言えばヨシュアの姿もないが、まだ合流できていないのだろうか。眠っていた時間は、思っていたより短かった?
 メイヴェルは毛布を畳んでから立ち上がり、外に向かって歩きだした。勝手に外に出たら怒られるだろうからしないが、外が見えるところまで出て、空の様子から今がだいたい何時ごろなのか、確かめようと思ったのだ。
 少し歩いたところで、声が聞こえてきた。ヨシュアの声だった。続いて、アーロの声も。なんだ、ふたりとも居るのか、と、メイヴェルはまず安堵する。それから、どうして自分が見えない場所で会話しているのかと、不満に思った。
 男同士、聞かれたくない話をしているのだろうか。そう考えると、近付いたり、声をかけたり、ここにとどまって話を聞いてはいけないのかもしれない。少し寂しいが、メイヴェルは再奥に戻ろうと考えた。ふたりに迷惑をかけている自覚はあるので、これ以上迷惑をかけてはいけない、と思ったのだ。
 けれど、引き返すために踏み出した足は、一歩目で止まった。ヨシュアが、信じられない事を言い出したからだ。
 驚きなのか、それとも怒りなのか、自身でも判らない感情が吹き出し、ヨシュアへと向かう。メイヴェルが走り出したり、叫び出したりせずにすんだのは、おそらく同様の感情を抱えたアーロが、ヨシュアに反論したからだった。
 だが、ヨシュアの主張は止まらない。それにアーロも、母をかばいはしても、父をかばうつもりはないようだ。両親ともども義兄を大切にしていたと思っていたメイヴェルは、アーロの態度にも衝撃を受けた。どうして義兄は、母は信じられて、父は信じられないのかだろう。父との間に、メイヴェルの知らない確執があったのだろうか――
 とうとうアーロは、ヨシュアに反論する事をやめた。それはヨシュアの説得を諦めたからではなく、ヨシュアの主張を納得して受け入れたからのようだった。
 信じられない。メイヴェルはもしかすると生まれて初めて、義兄に対して憤った。
 母に隠し子が居ただろう事は、強い衝撃を受けはしたものの、メイヴェルも何となく受け入れる事ができた。ヨシュアの言葉だけでは無理だったろうが、自分自身の胸に刻まれた印が、理解の手助けとなってくれた。大地の王が語った、メイヴェルと似ていると言うコーラル、それが実の兄だと言うなら、しっくりくる。
 けれどそれ以上は、とうてい受け入れられるものではない。母はいつでもメイヴェルに優しかった。アーロにだってそうであったはずだ。なのに、どうしてヨシュアの言葉を丸ごと信じられるのだ。メイヴェルの実の兄が実在し、離れた場所で<守護者>になっていたからと言って、母が息子を捨てた証拠にはなりえない。息子の死に母が関わっている証拠にも、だ。母が本当に、ヨシュアの語る通りの、子供を顧みない人物であったなら、メイヴェルを犠牲にする事もありえるかもしれないけれど――
 メイヴェルは強く首を振った。
 飲み込まれてはいけないと思った。ヨシュアが語った事のひとつが真実だとして、残りの全ても真実とは限らないのだ。そうだ、義兄もそうして、ヨシュアが正直者だと思い込んでしまったに違いない。
 メイヴェルは地面を蹴った。力一杯走って、ふたりの元に駆け寄った。足音で気付いたのだろう、メイヴェルがふたりの元に駆けつけた時、ふたりはすでに振り返っていて、気まずそうな表情でメイヴェルを見つめていた。
「嘘つき!」
 精一杯、叫ぶ。怒りのせいでにじみ出てきた涙が、メイヴェルの声を震えさせた。
「メイヴェルちゃ……」
「どうしてお母様を酷く言うの!? 貴方がお母様の何を知っているって言うのよ! 何も知らないで、勝手にお母様を語らないで! 貴方は、いい人だと……信じられる人だと思っていたのに!」
「メイヴェル」
 アーロがメイヴェルの腕を強く掴み、引っ張った。勢いで振り返ったメイヴェルは、義兄を見上げる格好になる。
「すみません、先輩。少し興奮しているみたいなんで」
「どうしてそんな人に謝るの!?」
「メイヴェル!」
 強く名を呼ばれ、メイヴェルの体は萎縮したが、視線だけは反らさなかった。
 向かい合った瞳の奥に、動揺が見える。メイヴェルへの気遣いや、迷いも。けれどその中に、ヨシュアを労る心を見つけた気がして、メイヴェルは苛立つばかりだった。
「お兄ちゃんは、この人の言う事を全部信じるの?」
 強い戸惑いを見せた後、アーロはゆっくりと頷いた。
「どうして? 家族の事を信じられないの? たった二年間だったかもしれないけど、お兄ちゃんだってあの家で、一緒に暮らしたのに。どうしてお母様を信じられないの?」
「いや、でも、メイヴェル。シェーラ様じゃなければ、ウォレス様が、って事になる。どちらにせよ、家族をみんな信じるのは、無理――」
「違う! 絶対……違うの!」
 叫ぶと同時に大粒の涙が溢れ出てきて、メイヴェルはもう言葉を紡げなかった。その場に崩れ落ち、空を見上げ、ただ叫びながら泣いた。
 アーロは傍らに膝を着く。メイヴェルを慰めようとしたのか、涙を拭おうとしたのか。どちらにせよ今は疎ましく、メイヴェルは腕を振り回して義兄を突き放した。子供みたいだと呆れられるかもしれないなどと、考える余裕もなかった。
「お前の言う通り、犯人探しなんて野暮だったんだろうなぁ」
 困惑を声に込め、ヨシュアが呟く。
「そうですよ! どうしてくれるんですか先輩! メイヴェル、こんなに泣いちゃって! 先輩のせいですよ!!」
「否定はしないけども」
 ヨシュアは悪びれもせずに、アーロの叫びを受け止めた。
「悪いが、俺がお前の依頼を無償で引き受けたのは、コーラルの敵討ちができるかもなぁっつう、別の利益もあったからだぞ? 今はほら、色々絡み合っているけど、そもそもの目的は、あの女を糾弾する事なわけよ。だから俺が謝るとしたら、『メイヴェルちゃんに話を聞かれちゃってごめんな』くらいだぞ?」
「先輩、シェーラ様の娘だからって、メイヴェルにまで冷たく当たるのやめてください」
「そのつもりはないんだが、そう感じたなら素直に謝る。悪かった」
 言葉通り素直に謝ったヨシュアは、首をかきながらため息を吐いた。
「でもお前も、四年後くらいに俺に謝れよな」
「何でですか」
「俺は、お前が思っているほど大人じゃないんだって事。でも、『あの時の先輩、色々我慢してたんだろーなー』って、四年後くらいに理解してくれれば、とりあえずそれでいいから」
 ヨシュアはゆっくりとメイヴェルに歩み寄り、静かに跪く。未だ嗚咽を繰り返すメイヴェルが、聞き逃さないように気遣ったのか、耳元に唇を近付けた。
「メイヴェルちゃんがつきあいの浅い俺を信じないのは当然だと思うから、まあ、少なくとも今は、俺を信じなくていいや。嫌ってもね」
 メイヴェルはゆっくりと首を傾け、ヨシュアに振り返った。
「メイヴェルちゃんはコーラルを知らなかっただろうけど、コーラルはメイヴェルちゃんの事、知っていたよ。そして、メイヴェルちゃんを羨んでいた。その想いが時に、憎しみに近付いた事もあった」
 ヨシュアを見上げる濡れた瞳には、嫌悪感が色濃く映り出ているだろう。しかしヨシュアは怯む事なく、まっすぐ見つめ返してきた。
「けれど、俺は君を守るよ。コーラルがメイヴェルちゃんを妹として想っていたかってのはともかく、メイヴェルちゃんまであの女の犠牲になって欲しくないって思っていたのは本当だから。だからコーラルの代わりに、俺がそれをやる。メイヴェルちゃんが望もうと、望むまいと、ね」
 息が詰まるほど温かな声のせいだろうか。気付くと、メイヴェルは頷いていた。
 ヨシュアの全てを信じたわけでも、受け入れたわけでもない。ただ、彼が語るコーラルの存在や意志は、まるで今ここにコーラルが居るかのような現実味があったのだ。メイヴェルを守ってくれるのは、アーロと、ヨシュアと、それからもうひとり居るのだ、と。
 メイヴェルはそっと、胸の上に手を重ねる。そこにある傷が、見た事もない兄との唯一の絆のような気がしたからだ。
 兄が居たからこそ、手に入ったかもしれない力。
 大事にしようと、そう思った。


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