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三章



 去り際のアーロが見せた、少しだけ丸まった背中とか、明らかに落ちている肩とか、うなだれ気味の頭とかが、メイヴェルの胸にも暗い気持ちを落とした。
 大地の王との会話を聞いていたから、アーロが落ち込む気持ちはよく判る。その上、アーロが今力を求める理由が、自分を守るためだと判っているから、メイヴェルはなおさら息苦しいのだった。
「私の事なんか守ってくれなくてもいいよ」などと言えるほど、自分は強くも優しくもないと、メイヴェルは知っている。それに、たとえ言えたとしても、それはアーロが喜ぶ言葉ではないだろう。
 何もしてやれず、かける言葉すら見つからず、メイヴェルは困惑するばかりだった。
【ねぇ】
 ひとりきりになったつもりで考え込んでいたメイヴェルに、突然声がかかる。メイヴェルは慌てて顔を上げ、声がしたほうに振り返った。
 大地の王が、そこに居た。地面に着くほど長い髪を、小さく揺らして首を傾げる。唇に浮かべる笑みは清々しくも愛らしく、わずかに妖艶さも混じっているようにも見えて、女が見てもどきりとするほどだった。
「えっ……どうして、まだ居るんですか」
【居ちゃいけないのー?】
 いけないわけではもちろんないが、帰ると言っていたのはそっちでしょうと、メイヴェルは心の中で反論した。声に出さなかったのは、なんとなく怖かったからだった。
【ところで貴女もしかして、<守護者>じゃない? 言葉に力がないけどー】
「は、はい。違います」
【そうなんだぁ。んー、聞き取り辛いし、やっぱり帰ろうかなー】
 大地の王はひとりごとをしきりに呟いているが、それがあまりにも聞こえよがしで、メイヴェルは反応すべきか迷った。「帰ろうかな」と言いながらさっさと帰らないのは、引き止めてほしがっているように感じるのだが、この場にはメイヴェルひとりしか残っていないのだ。引き止めたところでどうしていいのか、メイヴェルには判らない。
 おそるおそる、横目で、大地の王の様子を覗く。王がどうやって帰るか判らないのではっきりとは言い切れないが、今すぐ帰るつもりはなさそうに、メイヴェルの目には映った。
「あの、私、<守護者>に見えました?」
 メイヴェルはおそるおそる、大地の王に話しかけてみる。
 大地の王はすぐに頷いた。
【見えた、って言うのはちょっと嘘だけど。感じた、が正解かなぁ】
「感じた……? どうして?」
【なんか、<守護者>の人間たちが持っている独特の雰囲気って言うか、空気って言うか、そう言うの感じるよー。アーロなんかよりよっぽどね。だからもし……】
 大地の王は言いかけた言葉を飲み込んだが、メイヴェルは聞き逃さなかった。
 だからもし、と、大地の王は言った。次に、なんと言おうとしたのか。話の流れから素直に読めば、「<守護者>だったら」と続く気がする。
「私が<守護者>だったら、契約して、力を貸してくれましたか?」
【やーだぁ、言ってもない事勝手に受け止めてー】
 大地の王が不満げに目を反らすので、メイヴェルは即座に「ごめんなさい」と謝った。
【嘘よ。本当の事言うとね、わたし、貴女が気に入ったのー。だから、アーロはぜーったい嫌だけど、貴女となら契約してあげても良いかなって思ったのよー】
「私の……どこが?」
【何て言えばいいのかなぁ。貴女たちと感覚が違うから伝えにくいんだけどー……とにかく、好きなのー。貴女の中にある光、コーラルにそっくり】
 メイヴェルは首を傾げた。
「お兄ちゃんの事、気持ち悪いから契約しないんですよね? なのに、そっくりの私は好きだから、契約したいって」
【やだぁ!】
 大地の王は強い語気で叫び、メイヴェルの言葉を遮った。
【あいつはアーロでしょー。ぜんぜんちがーう。コーラルって、わたしが以前契約していた人間。何年前だったかなあ? いきなり存在が消えちゃって契約が終わったから、死んだんだと思うけどー】
「別人……」
 何となく気にかかったが、同名の人物が存在しないと信じられるほど珍しい名前でもないため、メイヴェルはすんなり納得する事にした。今は、そんな人物よりも、気にかかる事がある。
「あの」
 勇気を奮い立たせるために、メイヴェルは胸の前で重ねていた両手を、堅く握った。
「私と、契約してくれませんか」
 大地の王は切れ長の瞳を見開いて、メイヴェルを見下ろした。
【貴女、<守護者>じゃないんでしょー?】
「違います。今は。でも、どんな<守護者>だって、はじめは無力のはずです。王と契約して力を得て、はじめて<守護者>になるのでしょう? だから、私は――今、<守護者>になりたいです。力が、欲しいんです」
【なんで……ああ】
 大地の王は手を伸ばし、メイヴェルの首に触れる――いや、触れるとの表現は、誤りかもしれない。大地の王にははっきりとした実体がないようで、メイヴェルの首に重ねられた手から、感触や温もりは感じとる事はできなかった。
【なるほど。これは、闇の眷族と戦う力が欲しくなるわよねぇ】
 メイヴェルは一度だけ、はっきりと頷いた。
【だからアーロってば、最近焦ってたんだぁ。やだぁ、可愛い! 気持ち悪いけどー】
 大地の王はくすくすと笑って、手をメイヴェルの首から離し、代わりに顔の前に掲げた。
【いいわよぉ。貴女と契約してあげる】
「ありがとうございます!」
【とりあえず、契約に必要だからぁ、何かわたしに捧げてくれる?】
「何かって……」
【貴女のものなら何でもいいわよー。わたし、契約相手は人の好き嫌いで選ぶだけで、モノで選ばないものー】
 メイヴェルは戸惑った。昨晩、着の身着のままで家を飛び出してしまったから、余分なものは何ひとつ持っていないのだ。
 先ほどアーロが申し出ていたように、体を一部を渡すしかないのだろうか。しかし、大地の王はそんなものいらないと言っていたし――悩んだ末にメイヴェルは、常に首にかけている細い鎖を外す事にした。
 鎖には、小さな指輪が通してある。小さくて、もう小指にもはめられなくなってしまったもの。小さい頃、義兄と共に行った祭りで、ねだって買ってもらったものだ。
 義兄が突然消えてからの六年間、思い出にすがるしかできなかったメイヴェルにとって、大事すぎて手放せなかったもの。今でも大事であるのは変わらないが――義兄の手助けになるのなら、差し出す価値はあるかもしれない。
「これじゃ、駄目ですか?」
 指輪を手のひらに乗せ、そっと差し出すと、大地の王は微笑みながら頷いた。
【いいわよー。貴女と同じ光を感じる。間違いなく、貴女のものね】
「はい」
【もらうね】
 指輪は宙に浮き、大地の王に引き寄せられていく。やがて大地の王に重なると、淡い光を放つと共に、胸に吸い込まれるように消えていった。
 すると、今度は大地の王の体が光を放ちだした。淡く輝く手を伸ばし、メイヴェルの胸の上に手をかざす。
【<守護者>メイヴェルよ。偉大なる名を胸に刻め。我は大地の王。名はシャーリーン】
 今までの軽い口調が嘘のように、落ち着いた声で大地の王は語る。心地よい高さの声に、酔うように聞き入っていたメイヴェルは、突然胸が熱くなり、一瞬呼吸を止めた。
 皮膚を抉られるような痛みが生まれ、メイヴェルはその場に崩れ落ちる。呻くように悲鳴をもらしても、熱は消えない。自身の体を襲うものから本能的に逃れようとしたメイヴェルは、かきむしる勢いで服を緩め、胸元を露わにした。
 肌の上に、少しずつ傷が広がっていた。血は出ていないが、醜く腫れ上がり、何らかの文様を刻んでいるかのよう――ああ、これは、文字だ。メイヴェルの知らない文字だが、アーロが魔法陣に書き込んだものによく似ている。きっと、大地の王が、彼女の名を刻んでいるのだ。
 唐突に、熱と痛みが引いた。メイヴェルは深く息を吐き、もう一度吸い込んだ。短い時間だったが、額からにじみ出た汗は頬まで伝っていて、髪が輪郭にへばりついている。
 自身の胸元を見下ろした。傷のような文字は残ったままだったが、もう広がる事はなかった。大地の王、シャーリーン。彼女の名は、ここに記されたのだ。
【ありがとうございます】
 呼吸を整えたメイヴェルは、まず大地の王への謝礼を口にする。いつもと少しだけ違う響きを出す事に、戸惑いはなかった。
【いいのよー、別に。でも、忘れないでね、メイヴェル。わたしは貴女に力を貸すけれど、それは闇の眷族と戦うため。精一杯、闇の眷族を駆逐して。あんまりさぼったら、契約破棄しちゃうからねぇ?】
【はい】
【うん、いい返事。じゃ、今度こそ本当に帰ろー】
 大地の王は軽く手を振り、魔法陣の中に消えていった。
 魔法陣が輝きを失い、洞穴内が薄暗くなる。ああ、今、ひとりなのだと、急に思い知ったメイヴェルは、胸元の傷にそっと手を寄せた。
 指先に残るいびつな感触。自分が変わった証に、胸が高鳴るのを感じていた。


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