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三章



 ヨシュアとの約束の場所である木にはすぐに辿りついたアーロたちだが、この木の前で待っているわけにもいかないだろうと、ある程度隠れられ、待機するに困らない場所を、まず探す事にした。都合の良い事に、アーロにはひとつ心当たりがある。
 商業都市であるバレルにおいて、交易の要たる東西の街道は重要だが、古くからある西の街道に対し、東の街道は比較的近年作られたものだ。理由は簡単で、街の東がわには森が広がっており、拓くために手間取ったからである。
 そう言うわけで、東の街道は道を挟んで北も南も森が広がっている。大抵の街の子供たち、特に男の子ならば、探検と称して入った事は一度や二度ではなく、ゆえにアーロにも、それなりに地の利があるのだった。
 カドリーン家に引き取られてからは一度も足を踏み入れていないが、それ以前はよく行ったものだ。友人ともだが、一番記憶に残っているのは、生前の祖父と共に踏み入った時の事だった。祖父は、甘い木の実がたくさん成るところや、おいしい茸がとれるところなどと一緒に、祖父自身が小さい頃秘密基地にして遊んでいた洞穴の場所も教えてくれた。
 子供の頃にとても大きい洞穴だと感じていた記憶があるので、ある程度育った人間が三人過ごすだけなら、充分だろう。アーロはメイヴェルの手を引き、記憶を頼りに、森の中を進んだ。
 最後の記憶は八年前だが、きちんと覚えていたようだ。アーロたちは無事、目的の洞穴に辿りついた。思っていたより高さはなかったが、いくらか背の高いヨシュアはともかく、アーロやメイヴェルならは屈まなくとも入れるし、奥行きは記憶していた通りに広そうだ。
 灯りを手にしたアーロが奥まで足を踏み入れると、メイヴェルも着いてきた。心なしか、目が輝いているように見える。裕福な家庭に生まれ育ったメイヴェルは、こんなところに来た事がないだろうから、新鮮なのだろう。
「ここ、何なの?」
「何だろな。俺はじーちゃんに教えてもらったんだ。じーちゃんが子供だった頃から、もうこんなだったって。小さい頃はよく遊びに来てたんだよな――と」
 再奥までたどり着くと、いくらかがらくたが転がっていた。不思議な形をしたやたら大きな葉っぱだとか、不思議な色をした石だとか、近所の優しいお兄さんにもらった古びた本だとか。記憶の片隅に残るそれらは、ここに足しげく通っていた頃のアーロにとっての宝物で、気恥ずかしくも懐かしく、暖かな気持ちになるのだった。
「ここでヨシュアを待つの?」
「ああ。もしかしたら、ここでひと晩過ごす事になるかもしれないから、覚悟だけはしといてくれな」
「うん。判った」
「素直だなぁ。嫌じゃないのか?」
「何で? いつもじゃ嫌かもしれないけど、たまになら楽しいよ」
「虫が出てもか?」
「えっ」
 メイヴェルの表情も体も瞬時に硬直したので、アーロは思わず吹き出した。
「出たら、何とかするから」
「お……お願いします……」
 かしこまって頭を下げるメイヴェルの様子がおかしくて、アーロはしばらく笑い続けた。
「さって、と」
「ヨシュアを迎えに行くの?」
「いや、迎えにじゃなくて、合図を残すだけだけど。でもそれよりも先に、やっておきたい事があるんだ。悪いが、ちょっとはじっこに寄っててくれ」
 素直に頷いたメイヴェルが、端に寄って膝を抱えて座るのを確認してから、アーロは腰に差した長剣を鞘から引き抜いた。
 弟子入りしてすぐ、『<守護者>は魔法だけで戦うもんじゃないからね』と語るゾーグにあらゆる武術を教え込まれたアーロだが、結局は一番素質があった――とゾーグが判断した――弓術を重点的に習う事になったので、剣術自体はそれほど得意としていない。しかし一年ほど前、無理矢理仕事に駆り出された時の経験で、弓だけでは心許ないと気付き、長剣と短剣を一本ずつ持ち歩く事にしたのだった。
 今はもちろん、戦うために抜いたのではない。アーロは切っ先を地面に付け、引きずる事で、大きな円を書いた。次に、一回り小さな同心円を書き、二つの円の間に古代文字を刻む。最後に、三つの三角と四角を組み合わせた図を、空白となっていた円の中心に書き足した。
『何も見ずによく書けるなお前。すごいな』と、かつてヨシュアに言われた事がある。別にすごいわけではない。複雑な古代文字の配列を丸暗記できてしまうほど、この魔法陣を書き続けた事実があるだけだ。本当はこんなもの、覚えるほど書かないほうがずっと良いにきまっている、とアーロは思っている。
「何するの?」
 書き終え、剣を鞘に戻すと同時に、メイヴェルが声をかけてきた。
「最後の悪あがき」
 アーロは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「色彩の王の力じゃ、あの闇の眷族には敵わないって、先輩のお墨付き貰っちまったからな。だったらもっと強い王に頼るしかないだろ? 師匠から盗んだ宝玉も数に限りがあるしな」
 アーロは目を伏せ、深呼吸をする。意志を定め、精神を集中すると、暗闇を作る瞼の向こうから、強烈な明かりが見えるような気がした。
【力強き源、大いなる生命の母たる大地の王よ。<守護者>アーロの声に応えよ】
 呪文ではなく、呼びかけだ。<守護者>が、力を得るための。力を貸し与えてくれる、王と契約を結ぶための。
 師の元を飛び出すまでの間、アーロが何百と繰り返した儀式。しかし成功したのはただ一度、色彩の王との契約のみだった。
 今度も成功するとは思えない。だが、成功するかもしれないし、成功しないと困る。祈るようにアーロが選んだ相手は、大地の王だった。これまで契約にこそ至っていないが、色彩の王以外で唯一、アーロの呼び出しに応えてくれた事があるのが、大地の王だけだったからだ。
 魔法陣が光を発する。どうやら、最初の難関は突破したらしい。アーロがどんなに強く願い、唱えようとも、何も起こらなかった事は数え切れないほどあった。あの時の失望感と言ったらとても言葉にできるものではない――呼び出せたところで契約が果たせなかった時も、悔しいのは同じだけれど。
 光が、魔法陣が、歪んだ。それは、空間の歪みが見せるものだった。ただ地面に書いただけの図形や文字から、人の形をしたものがゆっくりとせり上がってくる――長い、長い、陽の光を浴びて明るく輝く草原の色をした髪が、揺れながら広がった。
「可愛い……」
 呆けた様子のメイヴェルが呟いた。どうやら、大地の王にみとれ、思わず口にしてしまったようだ。
 大地の王の外見は、人間にすれば十を少し過ぎたくらい、大きな目と華やかな笑みを持つ、愛らしい少女のものだ。はじめて見るメイヴェルがみとれる気持ちは判らないでもないが、アーロの心は完全に冷めきっていた。
【あんた、懲りないねー】
 ほら、第一声がこれだ。アーロは心の中で舌打ちしつつ、真面目な顔で大地の王を見下ろした。
【懲りてたまるか。契約してくれるまで、しつこく食い下がってやるさ】
【そう言う、情熱的なところは嫌いじゃないんだけどねー】
【じゃあ、契約してくれよ。捧げものは何がいい。今なら、腕の一本くらいくれてやる。何を誓えばいい。お前の魔力で万の闇の眷族を始末しろと言うなら、そうしてやる】
【女の子が何を欲しがっているか、聞かなくても判るようになったら一人前だと思うんだけどー……】
 大地の王はすう、と目を細め、アーロを見下した。
【とりあえず、腕はいらない。気持ち悪い。どうしてそれが捧げものになるのか、冷静に考えろ】
 そのくらいこの契約にかけているとの意志を伝えたかっただけで、無理に捧げるつもりはなかったのだが、冷たく辛辣に言い捨てられて、アーロは少し落ち込んだ。なぜだか、胸が痛い。惨めだ。
【今まで俺が何を捧げても、あんたは応えてくれなかったじゃないか。昔は花一輪で契約した事もあるって聞いたぞ。何で俺にはそんなけちなんだよ】
【力を借りたい相手に、その言いぐさは何ぃ? 優しくない子は嫌われるぞ?】
【そう言うのも、関係ないんだろ。<守護者>なんて大抵が傲慢か変人のどっちかじゃないか】
【そりゃそうか】
 大地の王は心底楽しそうに笑った。
【頼む。力を貸してくれ。ずっとが駄目なら、二日間だけでいいんだ。俺は今、どうしても力が必要なんだよ】
 深く頭を下げる。人間の礼など、王たちにとって何の意味もないかもしれないが、他にどうしていいか判らなかった。
 長い沈黙が流れる。大地の王は、迷っているのかもしれない。今までにない状況に、アーロの胸は期待で膨れたが、やがて訪れる現実は、冷たいものだった。
【無理ぃー】
 泣くかと思ったが、何とかこらえたアーロは、顔を上げる。
【だってあんた、存在がよく判んなくて、気持ち悪い】
 よくもこう、人が傷つく事を遠慮なく言えるものだ、と、アーロは傷を深めるよりも先に感心してしまった。
【気持ち悪いぃー】
【繰り返さなくても聞こえてるっつうの!】
【色彩が契約しただけでも奇跡よー? あいつも変人よねぇ。変人って言うか、探求心とか冒険心とかに溢れてるって言うのー? そう言うところがかっこいいんだけどー】
「ん?」
 大地の王の様子の変化に、アーロは首を傾げた。
【なんなら、今度色彩の王に、あんたがどんだけ可愛いかを伝えておくけど】
【ばっかじゃないのー! そんなのあ、た、り、ま、え、なのー! そんな事でわたしが喜んで、うっかり契約すると思ったら大間違いよー!?】
 即座に否定する大地の王だったが、彼女の心は正直に顔に出ているな、とアーロは思った。
 同時に、落胆が生まれる。これまで大地の王だけが呼びかけに応えてくれていたのは、脈があるからでなく、色彩の王が契約した人間に興味があっただけなのだろうと、なんとなく理解してしまったがゆえに。
「くそっ……!」
 アーロは唸り、大地の王と魔法陣に背を向けた。
 気持ち悪いとか、存在がわけわからないとか、王たちの感覚で言われてもよく判らない。判らないのにすぐに対策を練る事は難しく、アーロは苛立つばかりだった。
 その苛立ちをどこかにぶつけたくてたまらない。しかしメイヴェルの前でだけはする気にはなれず、アーロは乱暴な足取りで歩き出した。
「お兄ちゃん、どこに行くの!?」
「約束した、先輩との合図、残してくる。すぐ帰るから、お前はここで待っていてくれ」
「うん……判った」
【あたしにはもう用ないのねぇー? じゃあ、帰るわよ、っと】
【契約してくれねーならどうでもいい】
【あっそ】
 素直なメイヴェルの返事と、より苛立たせる大地の王の声を背中で受け止め、アーロは洞穴を出る。
 見上げる空には雲がほとんどなくて、メイヴェルの今夜の安全が保証されている事は嬉しかったが、今はその眩しさが、少し辛かった。


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