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二章



 アーロたちの足音が徐々に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。念のため、横目で視界からも消えた事を確認してから、ヨシュアは歩き出した。
 可能な限り足音を殺し、横道に入る。先ほど一瞬だけ目の端に映った相手が、進んだ道を。先の角を左に曲がったのも確認済みだ。その先は判らないが、今追いかければ間に合うだろう――やや気持ちが焦ったヨシュアは、少しだけ足を早めた。
 角を曲がる。見つけた。数十歩ほど先で、目当ての人物は足を止めていた。祈るように胸元で手を組み、しかし神に祈る事はできないのか、震え、唇を噛みしめながら、俯いていた。
 こうして見ると、まるで弱々しい生き物のようだ。けれどヨシュアは、駆け寄って手を差し伸べてやろうなどと、露ほどにも思わなかった。今まで通り足音を立てないようにしながら、ゆっくりと歩み寄るだけだった。
「どうなされました、奥様」
 三歩ぶんの距離を置いて立ち止まったヨシュアが話しかけると、目の前の人物――シェーラ・カドリーンは、一瞬だけ体を硬直させてから、慌てて顔を上げる。
「貴方は……」
 シェーラはいくらか口ごもってから続けた。
「うちの使用人、よね?」
 どうやら名前が思い出せなかったらしい。
 滅多に顔を合わせる事がなかったので、顔が思い出せただけましかもしれない。そう考えながら、ヨシュアは精一杯の笑顔を浮かべた。
「こんなにも朝早くに、こんな場所で、どうなされたのです?」
 同じ質問を繰り返すと、シェーラは泣きそうな顔をして、ヨシュアとの距離を縮めた。
 あえて距離を置こうとしなかったので、すぐに捕まった。腕を掴む白く細い手は、休む事なく震えていて、ヨシュアは無意識に眉を寄せる。
「朝になったら、メイヴェルが部屋にも、家のどこにも居なかったのよ。どこに行ったか判らないの。貴方は知らない? まさか、貴方が連れ出したわけではないわよね?」
「奥様、落ち着いてください」
 掴まれたままの左腕は自由にならなかったので、代わりに右手で、ヨシュアはそっとシェーラの肩に触れた。
「心配なのですね」
「当たり前でしょう? 昨晩は月が隠れていたのよ? もし、メイヴェルが家を出たのが昨晩だったら、どんな危険な目に――」
「いえいえ、奥様。そんな白々しい嘘を吐かなくてもよろしいのですよ」
 ヨシュアが笑顔で語りかけると、シェーラは目を見開いてヨシュアを見上げた。
「奥様が心を砕いているのは、メイヴェル様のためではないでしょう?」
「貴方は、何を言っているの?」
 シェーラは怒りゆえか、動揺ゆえか、唇を震わせながら、普段より少しだけ低い声でヨシュアに問うた。
「あれ? 俺、何かおかしな事を言いましたか?」
「おかしいもなにも」
「奥様はいつも自分の事だけを考えている。自分の身を守るため、自分の望みを叶えるためなら、子供を捨てる事すらためらわない。そうでしょう?」
「妙な事を言わないでちょうだい。私がいつメイヴェルを捨てたと言うの?」
 シェーラはヨシュアを突き放すかのように、掴んでいた腕をはらう。
 体ごと背けた女性の横顔を覗いて見れば、その瞳には明らかに、揺らめく感情が映し出されていた。
「メイヴェル様ではありませんよ。奥様にはもうひとり、お子様が居らっしゃるでしょう?」
「コーラルの事? 確かにあの子には、きつい事をお願いしたわ。けれど、捨てたわけではない。酷い言いがかりはよしてちょうだい」
「惜しい。そっちのコーラルではなくてですね……」
 シェーラは即座に振り返った。
 ヨシュアを真っ直ぐ見つめる目から、驚愕だけが感じ取れた。なぜ、と、眼差しだけで訴えかけてくるようだ。
 だからヨシュアは微笑んだ。シェーラを前にしてから今まで浮かべ続けていた、作ったものではない。心からの笑みだ。どうして笑えたのかは、自分でもよく判らない。嬉しかったのか、おかしかったのか――その両方か。
「貴方は、何者なの?」
 シェーラは問う。慎重に、声を抑えて。
「半年程度雇っただけの使用人風情が知っているのはおかしい事ですか? それとも、あれかな。ウォレス様も、シャナさんも、知らない事なんですか? メイヴェル様やアー……奥様がコーラルと呼んでいる少年は、知らないようですからねえ」
「何なの、貴方は!」
「判りません?」
 ヨシュアは首を傾げる。
 驚愕を通り越し、不安に支配されたのか、白い顔をより青白くしたシェーラは、無言で首を振る。そりゃそうか、と小さく呟いて、ヨシュアは首を掻いた。
「奥様が、コーラルの事を誰にも秘密にして生きてきたのだとしたら、可能性はひとつしかないでしょう」
「まさか、知っているの? コーラルを?」
「ええ。知ってますよ。貴女が殺したコーラルを、ね」
 ヨシュアが笑みを消し去ると、シェーラはびくりと体をはねさせる。身の危険でも感じたのか、一歩、二歩と後退してヨシュアとの距離を置いたが、そんな事に一体何の意味があると言うのか。
「私は、何も――いいえ、それより、あの子は、死んでしまったの?」
「おや? 多少の興味はありますか?」
「あたりまえでしょう。だって」
「やめろよ。あんたなんかに興味を持たれたら、コーラルが可哀想だ」
 笑顔を消し去り、冷たい声で吐き捨てたヨシュアは、二本の小剣を同時に引き抜く。胸の前で十字に構え、薄く輝く刃を、シェーラに見せつけた。
「何を……」
「コーラルにとっては、もう七年も前に終わってしまった事なんだ。終わっていないと言うのなら、俺がこの場で終わらせる」
「い……今なら許してあげるから、お止めなさい。人殺しをする気なの?」
「あれ?」
 ヨシュアは右手の剣を振るう。シェーラにはけして触れないよう、けれど鼻先に触れそうなほど際どいところで、目に焼き付くよう大げさに。
 風を切る音から少し遅れて、シェーラの体が沈んでいった。足に力が入らなくなったのだろう、その場に座り込んだまま動けないでいる。
「自分勝手にコーラルを追いつめて、結果的に殺してしまったあんたに、そんな事言われるとは思わなかった」
「ちが……違うわ、私は、コーラルを」
「殺してない、って? まあそうかもしれないな。コーラルはひとりで勝手に死んだのかもしれない。何の価値もない母親のために傷付いてしまったコーラルが、弱く愚かだっただけかもしれない。そう言う考えかたもないわけじゃないさ。でもな」
 ヨシュアは片膝を着き、近い位置からシェーラを睨んだ。
「メイヴェルは違うだろう? このままじゃあんたは確実に、娘を殺す事になる」
 長い沈黙が生まれた。
 沈黙の間ずっと、ヨシュアはシェーラを見つめ続けた。けれど応じてくれたのはほんの一瞬で、シェーラはすぐに顔を伏せてしまった。
 ヨシュアは失望しかけたが、すぐに思い直した。そもそもヨシュアは、目の前の女に希望など残していなかった。昨日までならばわずかに残った期待を抱けたかもしれないが、今はもう無理だ。拾い子であるアーロに、コーラルと名付けて息子扱いしていたと聞いたその時が、最後だったのだ。
 ため息ひとつ吐き出して、ヨシュアは立ち上がる。両手の剣を鞘に戻し、俯いたままのシェーラを見下ろした。
 きっと、ヨシュアの言葉を否定しないだけでも、この女にしては充分すぎるほどなのだろう。
「邪魔だけはしないでくれ」
 ヨシュアは落とすように、声をこぼす。伝わってくれと、心の底から祈りながら。
「闇の眷族は俺とアーロで倒す。そうしてメイヴェルを守る事は、結果的にあんたを守る事にもなるだろう。だから、手を引いてくれ。メイヴェルを探すために人を雇ったのは、あんただろう?」
 シェーラは何も応えなかった。
「あんただって最初は、コーラルやアーロに頼ろうと考えたんだ。自分と天秤にかけたら自分のほうが重かっただけで、メイヴェルに死んでほしいわけじゃないんだろう?」
 シェーラは頷く事も、首を振る事もしない。当然、何か声を発する事もない。心底苛立ったヨシュアだが、叱りつける気力も湧いてこなかった。
 その場にシェーラを置き去りにしたまま、ヨシュアは立ち去る。もし伝わっていなければ、それまでの事だ。今度こそためらったりせず、あの女を――シェーラを――消してしまおう。
 コーラルの寂しい心を弔うためにも。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.