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二章



「おやすみ」と挨拶をして、寝台に横になったからと言って、すぐに眠れるわけでなかった。唐突に巻き込まれた状況や、突然知らされた事実は、メイヴェルにとって衝撃的で恐ろしいものであったから、気分が変に高揚してしまい、上手く寝付けないのだ。
 結局メイヴェルは、朝までろくに眠る事ができなかった。月が顔を出す事で一時は安心していたのだが、風がいたずらをしたら再び雲が月を覆い隠してしまうかもしれないと一度考えはじめたら、もう逃れられなかった。恐ろしさと不安で激しく乱れた心に平静を取り戻すには、部屋の中心で淡く灯る蜜蝋の明かりを眺め続けるしかなかった。さすがにこの歳になってまで、義兄に一緒に寝てくれと言うわけにもいくまい。こんな状況でさえなければ、同じ部屋で休む事にも抵抗があるくらいだと言うのに。
 窓を閉め切ったために、空気が大きく動かない部屋の中では、蝋燭の炎の揺らめきは一定だった。それを眺めているうちに、感情の揺らぎも少しずつ落ち着いていく。おかげで、朝が近付いてきた頃になって、ようやく眠気がメイヴェルを襲った。
 目を伏せる。すると、意識が後を追った。全身が脱力し、暗いけれど優しい眠りに落ちていけそうだ――そう思った瞬間、激しい音が鳴った。
 乱暴に開いた扉が壁を打つ音。少し遅れて悲鳴。どちらも、壁一枚挟んだ隣から聞こえてきた。すぐに目覚めたメイヴェルが体を起こすと、アーロやヨシュアはすでに寝台を出ていて、無言で顔を見合わせ頷いていた。
「何が……」
 あったのかな、と聞こうとしただけだったが、アーロが立てた人差し指を口元に運ぶ。静かにしろ、と無言で訴えられ、メイヴェルは口を閉じた。
「な、何ですか! こんな朝早くに……勝手に!」
「おい。数合わねぇぞ」
「こらオッサン! 話が違うじゃねぇか!!」
 壁を挟んでも聞き取れるほどはっきりと、怯えた声や荒々しい声が聞こえてくるのだが、状況の理解を促す言葉はひとつも聞こえてこない。
 壁の向こうの人々も、状況を理解していないのだろうか。ろくに通じていない会話から、とりあえず混乱を感じ取ったメイヴェルは、救いを求めて義兄を見つめたが、当のアーロはメイヴェルを見ていなかった。窓を開け、周囲を見回したかと思うと、軽やかな動作で飛び出してしまう。
 この部屋は確か二階にあったはず。思わず悲鳴を上げそうになったメイヴェルの口に、ヨシュアの手が覆い被さる。
(ごめんね、もう少し静かにしていてくれるかな。気付かれないように逃げたいから)
 耳元でそう囁かれ、返事の代わりにぎこちない動きでメイヴェルは頷いた。頷くしかなかった。
(じゃ、ちょっと失礼。うっかり舌噛まないように、歯をくいしばっておいて)
 そう言ったヨシュアに急に抱き上げられ、何をされるのか想像もつかないメイヴェルは、半ば錯乱した。またも悲鳴を上げそうになったが、アーロとヨシュアのふたりともに静かにするよう注意されていた事だけは脳裏にはっきりとこびりついていて、両手を自身の唇に押しつけるようにして、声を必死に押さえ込んだ。
「で、ですから、二階の一番奥の部屋と、い、言ったではありませんか。こちらの部屋ではありませんよ」
「あぁ? この奥に部屋は無かったぞ?」
「そんな馬鹿な……」
 壁の向こうの、混乱と言う名の言い争いは、新たな登場人物を追加しながら、まだ続いているようだった。
 新たな声には少し覚えがある。この宿の主人が、確かこんな声をしていた。その声が、一番奥の部屋――メイヴェルたちが借りた部屋を、何者かに教えている。
 自分を狙う闇の眷族の仲間だろうかと、メイヴェルは考えた。答えを求めてヨシュアを見上げると、ヨシュアは微笑んで目配せするだけで、メイヴェルを窓から放り投げた。
 ここまでくると、悲鳴を上げる気にもならなかった。驚きすぎて心臓が止まるかと思ったほどだ。一瞬後、柔らかく受け止めてくれる腕の中に落ち着いても、体の硬直はしばらくとけなかった。
(ごめん。ほんっとーにごめん。今はとにかく、逃げるのが先決なんだ)
 下で受け止めてくれた義兄が、謝罪の言葉を囁く。もはや怒る気力も湧いてこず、メイヴェルは無言で頷くだけだった。
 続いてヨシュアが飛び降りてくると、間髪入れずにふたりは走りはじめた。アーロなど、メイヴェルを抱き上げたままだ。恥ずかしかったので「下ろして」と言いたかったのだが、下ろされても今の状態では走るどころか歩けるかどうかすら自信がなく、メイヴェルはおとなしくされるがままとなっていた。
「おい、あれ――」
「あいつらじゃねえか? 追え!」
 背後から複数の男たちの太い声が届き、アーロは舌打ちをした。
「ちょっと先輩、いきなり見つかってますよ!?」
「俺のせいじゃないだろうが! それに、建物の中で追いつめられるよりずっとましだろ!」
 ヨシュアは走る速度をやや落とし、アーロたちの数歩後ろを追う形を取る。後ろを振り返りながら、素早く詠唱した。
【闇の王よ、ヨシュアの名において、視界を遮る漆黒をここに】
 昇りかけた朝日に照らされはじめた大きな通りを塞ぐように、ヨシュアと男たちの間に、一瞬にして暗闇が広がる。急に追う相手を見失った男たちの、悲鳴に似た怒号が、闇の向こうから響く。
「でも、俺の言った事間違ってなかっただろう? 人間対策もしておいた方がいいってな!」
「あーはいはい」
「お前先輩を敬う心をどこに捨ててきた」
「のんきにしゃべってる余裕なんかないんですよ!」
「お……重くて、ごめんなさい」
 メイヴェルはとっさに、息を切らしながら叫ぶ義兄に謝った。
 するとアーロは珍しく、厳しい眼差しをメイヴェルに落とす。
「重くねーよ!」
 喜んでいいのか悪いのか、複雑な想いを胸に、メイヴェルは俯くしかなかった。
「で、でも、もう、多分、大丈夫。少し落ち着いたから、自分で歩けるよ、お兄ちゃん」
「あー?」
「っと、アーロ、悪い。待ってくれ」
 後ろから追いかけてくる男たちを撒いた事を確認してから、ヨシュアが足を止める。
「仕方ないな」とでも言いたげに、アーロも足を止めたので、この機会を逃すまいと、メイヴェルは地面に降りた。足はまだ多少震えているが、立つ事も走る事もなんとかできそうだ。
「どうしたんですか、先輩! のんびりしている余裕はないでしょう!」
「んー……」
 ヨシュアは首を傾け、どこか遠く見つめていた。
「ちょっと、先に行っててくれるか」
「は?」
「すぐに追っかけるから」
「いや、どうやって合流するつもりですか」
「なんか、お前ならちょちょいと、俺にだけ判る合図作れるだろ? よっ、希代の色彩使いー!」
「茶化さないでくださいよ。そりゃ、作れますけども。でも、大雑把にでも場所を決めておかないと、合図そのものを先輩が見つけられないでしょうが!」
「そりゃそうだな。じゃあ……」
 ヨシュアは辺りを見回してから、一点を指し示した。
「あの木でいいや」
 ヨシュアが指さす先には確かに、背の高い木が見える。街を囲む外壁の向こう、東側の門の付近に立つもので、東がわの街道からこの街にやってくる者たちは、あの木を目にする事で、到着が間近であると知ると、メイヴェルは聞いた事があった。
「いいやって、適当すぎ……」
「頼む、アーロ」
 アーロに振り返ったヨシュアの眼差しは、メイヴェルがこれまで見た事がないほど真剣だった。
 そう感じたのは、使用人だった期間を含めて半年ほどしかヨシュアの事を知らないメイヴェルだけではないらしく、アーロも目に見えて狼狽していた。
「頼む」
 もう一度。短く、力強く、ヨシュアは願う。
「判りました」
「ありがとな」
「判ったので、剣を一本貸してください」
「は?」
「先輩とうまく合流できなくて、あの闇の眷族と対峙する事になった時のために。俺のじゃ歯が立たないので」
「ばーか」
 ヨシュアはアーロの背を力強く叩いた。それは、送り出すための餞のようだった。
「万が一そんな事になっても、俺のモンは俺以外に絶対使わせねーよ。ほら、さっさと行け」
 まだ納得行っていない顔をしてるアーロだが、ヨシュアに押され、しぶしぶと言った形で足を踏み出す。
 先を行くアーロに手を引かれ、メイヴェルもゆっくりと走り出す。途中、どうしても気になって、一度だけヨシュアに振り返った。
 苛烈な感情を宿す瞳が、どこかを何かを、それだけで切り裂けるのではないかと思うほどに、強く睨みつけている。
 別人を見ているような不安感に、メイヴェルは胸は締め付けられるような痛みを覚えた。


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Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.