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一章



「コーラル……って」
 ヨシュアはあからさまにいぶかしんだ顔で、メイヴェルと、自らがアーロと呼んだ少年の間で視線をさまよわせる。
「おい、アーロ、どう言う……」
 しかしアーロと呼ばれた少年は、問いを投げかけるヨシュアに向き合おうとしなかった。手で乱暴に押しやる事で強引に黙らせながら、その目はメイヴェルだけを見つめる。温かく、広く深く、メイヴェルの不安を全て受け止めるかのように。
「メイヴェル、大丈夫か? 何ともないか? 怪我してないか? 怖かったよな?」
 間違いない。彼は義兄だ。メイヴェルたち家族が、コーラルと認識している人物だ。名前が変わってしまっているようだけれど。声も変わってしまったけれど。共に過ごした時間の何倍もの時間が過ぎたせいで、背が伸びて、顔立ちは子供のものから少年のものへと成長して、外見上は面影くらいしか残っていないけれど。それでも、判る。
 たったひとつ、メイヴェルを慈しむ心だけは、最後に会った日からちっとも変わっていない。
「お兄ちゃん!」
 メイヴェルは叫ぶのと同じくらい力一杯地面を蹴り、義兄の元へ飛び込んだ。
 勢い任せのメイヴェルを、義兄は柔らかく受け止めてくれた。大きくなった手で、メイヴェルの頭や背中を優しく撫でてくれた。
 その温かさに安堵したからか、熱いものがこみ上げてきたが、メイヴェルは必死に堪える。溢れさせてしまったら、言いたい事が言えなくなってしまうし、見たいものが見えなくなってしまうからだ。
「あの日、どうしていきなり居なくなっちゃったの!? ずっと、心配してたんだから! 闇の眷族に食べられて、死んじゃったのかと思った!」
「ごめん。心配かけたんだな」
 義兄は謝罪を述べながら、メイヴェルの目尻をそっと拭う。堪えきれずに滲み出た涙が、夜風に触れて冷たく消えた。
「それか、本当のお母様のところに帰っちゃったのかなって……!」
「いやいや、それだけは絶対ないって。あの人が迎えに来るはずがないし。来ても、俺、帰りたくないし。万が一帰ったとしても、メイヴェルに黙って帰るなんてありえな」
「判んないもん、そんなの。判んなかったもん!」
 最後まで聞く事すら耐えられず、義兄の言葉を遮るようにメイヴェルは叫んだ。
「だってお兄ちゃん、私に黙って、勝手に――」
「ごめん」
 この時義兄が口にしたのは、質素で単純な謝罪の言葉でしかなかったが、声に込められた力や感情はひどく複雑で、離れていた日々に抱えていた沢山のものを、伝えてくるようだった。
「約束破って、お前に何も言わず勝手に出て行って、六年間も連絡取らずにいて……寂しい想いをさせて、ごめんな」
 ずるい。と、メイヴェルは思った。
 義兄は前から、メイヴェルが怒ると、さっさと謝る人だった。「とりあえず謝ってすませておこう」との気持ちが見え隠れする事もあって、余計に腹立つ事もあるのだけれど、大半は真摯な気持ちが籠もっていて、それ以上怒れなくなってしまう。
 寂しかった。悲しかった。だから、もしもう一度会えたら、言ってやりたい恨み言が沢山あったはずなのに――そんな風に謝られたら、言えなくなってしまうではないか。ただでさえ、こうして再会できた事が嬉しくて、鬱屈していた憤りの大半が霧散してしまっているのに。
 だからメイヴェルは、涙を堪えるのをやめた。大粒の涙を次々にこぼして、大声を上げて泣いた。義兄が弱々しい声でメイヴェルの名を呼ぶが、知った事ではない。困ればいい、と思う。
 しばらくして、義兄は諦めたようだった。メイヴェルの肩に腕を回し、少し強く引き寄せて、泣き場所として胸を貸してくれた。
 涙が余計に溢れてくるのは、一定の間隔をあけて肩を軽く叩く手が、心地よすぎるからだろうか。
「うん、まあ、な」
 メイヴェルの鳴き声が疲れて小さくなった頃、こほん、と小さな咳払いが響く。
「兄妹の感動の再会は、とても素晴らしい事だと思うんだが」
 声が聞こえて、ようやくメイヴェルは思い出した。この場には自分と義兄だけでなく、ヨシュアも居たのだと言う事を。
「先輩、そう思うなら、邪魔しないでくださいよ」
「邪魔しないようけっこう待ってやっただろうが。だからそろそろ俺にも言わせろ、色々と」
「今言わないといけない事なんですか?」
「んー、俺が何か言いたいって言うより、お前がさ、俺に何か言う事、ないのか?」
「ありますよ、沢山」
「おう、言ってみろ」
 何を言うつもりなのか気になったメイヴェルが、顔を上げ泣き腫らした目で見上げると、義兄はメイヴェルに柔らかく微笑みかけてから、きつい眼差しでヨシュアを睨んだ。
「俺、お願いしましたよね。メイヴェルの十五の誕生日までに必ず戻るから、それまで守ってくださいって。なのになんで、メイヴェルにこんな怖い想いさせてるんですか!」
「えー!? そう来るか普通!」
 ヨシュアは心底驚いた様子で、間の抜けた声を上げる。
「俺けっこう頑張っただろう! ってか、大丈夫か? とか、怪我ないか? とか、まず俺に言うべきじゃねえの? メイヴェルちゃん、どう見たって大丈夫だろ。怪我ないだろ。俺はどう見たって怪我してるだろ」
「見て判る先輩の怪我よりメイヴェルの心の痛みの方が心配です」
「いやいや判るくらい痛々しい俺の心配しろっつうの! 誰のせいでこうなったと思っているんだよ」
「闇の眷族に対して先輩が弱かったからですよね」
「ああその通りだよ。でもな、全力で逃げれば無傷ですんだはずの俺が、あいつと戦う事を選んだのは、可愛い後輩が土下座までして頼んできたからなんだが?」
「あ……あの!」
 ひきつった、どこか冷たい笑顔で睨み合うふたりの間を遮るように、メイヴェルは口を挟む。泣きすぎて少し声が涸れていたが、気にしていられない。
「ごめんなさい、私……沢山助けてもらったのに、お礼も言わないで。ヨシュア、ありがとう」
 上手い言葉が見つけられなかったメイヴェルは、率直な言葉で感謝を述べ、頭を下げる。
 数拍おいて、軽い拍手が響いた。
「うわあ可愛い。ほら、人間素直が一番だよ。お前もこのくらい言ってみろって」
「さっきから素直な気持ちしか言ってませんよ俺は。でもまあ、そう言えと言うなら言いますよ。メイヴェルを守ってくださってありがとーございます」
「うわあ本当に可愛くないなお前」
 ヨシュアは堅く握りしめた拳を、金茶の髪に包まれた頭に落とす。メイヴェルにもはっきり聞き取れるほどの大きな音がしたから、それなりの衝撃だったのだろう。義兄は頭を抱え、悶えた。
「まあいい。アーロのおかげで月が出てきたし、今日のところはとりあえず安全だろうから、きちんと休めそうなところに行こう。そこで色々説明しあおうじゃないか」
「そうですね。聞きたい事がたっぷりあります」
「俺もあるよ。少しだけどな」
「じゃあ、家に戻れるの?」
 メイヴェルが訊ねると、義兄とヨシュアは複雑な表情で見つめ合った後、どちらからともなく首を振った。
「とりあえず今夜は、その辺の宿に泊まろう」
「どうして」と聞き返したかった。けれど、困惑混じりの義兄の笑みは、向けられたヨシュアの背中は、メイヴェルが問いかける事を拒否していた。
「そうだ。先輩、これあげますよ」
 義兄が突然荷物を探りだし、取り出した石をヨシュアに投げた様子にも、話を逸らす意図が見える。
「何だこれ」
「大地の王の力が入っている宝玉です。役に立つかと思って、出かけに師匠の部屋の左の棚の上から三段目からくすねてきました。傷、痛いんでしょう?」
「おー、気がきくな。もう少し早く出してほしかったが――でもなんで、これに大地の王の力が入ってるって判るんだ? 師匠んとこ、力が篭もった宝玉だらけだろ。あの人、歴代の弟子全員に作らせてんだから」
「先月くらいに、数が多すぎてひと目で判らないから色分けしろって頼まれたんですよ。色彩の王の力ならできるんじゃないかって。茶色いでしょ、それ。大地のは茶色にしておきました」
「地味に役立ってるじゃないか、色彩の王」
「ええまあ。俺も歴代の弟子の中のひとりのはずなのに、宝玉に力込めろやー、と、一度たりとも頼まれた事がない程度にはお役立ちです」
「安心しろ。俺の闇の王の力も入れてないから」
「力が大きすぎてできなかっただけでしょう」
「お前、そう言うところは全然変わらないよなあ。ま、人間そう簡単に変わるもんじゃないんだろうけど」
 苦笑しながら歩き出したヨシュアは、受け取った宝玉を強く握りしめる。足下から鈍い光がせり上がり、全身を包んだかと思うと、背や頬に刻まれた傷が、少しずつ塞がっていった。
 ずっと明るく振る舞っていたが、流血を伴う傷を負っていたのだ。やはり苦痛に耐えていたのだろう。傷が消えた後、長い息を吐き出すヨシュアを見て、メイヴェルは申し訳なさに肩を落とした。
「ほら。行くぞ、メイヴェル」
 俯いていたメイヴェルの視界に差し伸べられた義兄の手は、子供の頃よりずっと大きくて、ごつごつとしている。
 けれど握り返してみると、温もりと共に伝わってくる優しさは、やはり変わっていなかった。


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