一章
5
光の障壁越しに見る風景は、常に白く霞んでいたが、それでも憎たらしいほど整っていた闇の眷族の横顔が、突如歪む。
歪ませたのは、おそらく苦痛だ。闇の眷族の羽根を、肩を、貫いているものがある。その刃は白く輝いていた――ヨシュアがつい先ほどまで振り回していた、小剣だ。
『小賢しい真似を』
やがて、闇の眷族が呟いた。
同時に、メイヴェルは見た。唸るように押し寄せる水が、炎を飲み込んでいく様を。
火はみるみるかき消えて、しかし水も次々と蒸発し、辺りに水蒸気が充満する。白き障壁の中に居るメイヴェルに直接の影響はないのだが、視界がいっそう歪んだせいか、息苦しい気持ちになった。
「失敗失敗。さすがの俺も焦って手元が狂っちまったかな」
ヨシュアの声がメイヴェルの耳を、淡い光がメイヴェルの目を、引いた。
炎に包まれていた事が嘘か冗談であったかのように、平然とした様子で、ヨシュアは立っていた。右手の小剣の刃の輝きが黒くなった事と、軽く握った左手の拳の隙間から青い光を洩らす以外、何の変化もないままに。
『これは、お前自身の力ではないな』
「そんな事はねーよ? お前たち闇の眷族には判らんだろうが、人望って言うか、友情の力ってやつだ。いや、愛の力かな? ともかく、俺の力なんだよ」
闇の眷族はあざ笑ったのか、静かな笑みを浮かべると、未だ突き刺さったままの剣を引き抜く。自身の体液に汚れた刃を、値踏みするように眺めたかと思うと、ヨシュアに向けて投げつけた。
ヨシュアは後方に跳ぶ事で小剣を避け、着地と同時に地面を蹴った。そうして、剣を追うようにヨシュアに向かってきた闇の眷族との距離を縮め、黒い刃を埋め込もうと小剣を振り上げる。刃は闇の眷族の爪と交わり、高い音を立てた。
ヨシュアが眉間に皺を寄せる。音が不快だったのだろうかと、メイヴェルは思った。メイヴェル自身、耳を塞ぎたいと思ったからだ。
けれど違うのだとすぐに理解した。爪と爪の間に入った刃を、闇の眷族が絡め取ろうとしているのだ。白き法剣が数歩後方に落ちている今、黒き法剣まで手放してしまえば、ヨシュアは丸腰になってしまう。だからヨシュアは迷ったのだ。手の中にある剣を死守するか、手放してしまうか。
一瞬の迷いにつけ込むように、闇の眷族はもう一方の手でヨシュアを襲った。ヨシュアは身を捩り、それでも頬に切り傷を受ける。真紅の血が頬を伝い、顎に届く頃、ヨシュアは舌打ちし、闇の眷族を蹴り飛ばすと共に、剣を手放した。
【光の王よ】
詠唱しながら、ヨシュアは後方に向けて走った。空いた右手を白き法剣に伸ばし――空気を掴む。あと少し、と言うところで、ヨシュアは体勢を大きく崩したのだった。闇の眷族の爪を、背中に受ける事によって。
鮮血をまき散らしながら倒れ込むヨシュアの背を、闇の眷族が踏みつける。苦痛に耐える低い悲鳴を漏らしたヨシュアは、土煙を吸い込んだ事で少し噎せたが、なおも詠唱を続けようとする。
すると闇の眷族は、ヨシュアの腹を蹴りつけた。抉るように、強く。ヨシュアは詠唱を中断せざるをえなかった。
「ヨシュア!」
メイヴェルは叫ぶが、反応はない。ヨシュアからも、闇の眷族からも。
『忌々しき光の使いは手強いと聞いていたが、思っていたほどではなかったな』
息苦しさに歪んだ顔で、ヨシュアは笑う。右手で闇の眷族の足を掴み、左手の拳を胸元まで引き上げる。
拳の中にある石の輝きが唐突に増し、まばゆいほどの青が溢れた。光は多量の水の固まりとなって、闇の眷族の腹を打つ。そうとうの衝撃だったのだろう、浮き上がってしまった体を、羽を用いて体勢を整えた闇の眷族は、空中からヨシュアを見下ろす。
ヨシュアは立ち上がりながら、白き法剣を拾い上げた。
「悪い悪い。油断しちまって。退屈だったよな? そろそろ本気出してやるよ」
はじけた水に濡れて重くなった髪をかきあげながら、ヨシュアは不敵に笑う。その表情か、言葉か、態度か、ともかくどれか――あるいは全てだったのかもしれない――が気に障ったのは明らかで、闇の眷族がまとう空気が変わった。
ヨシュアが本当に油断して手を抜いていたのか、メイヴェルには判らない。けれど、闇の眷族が今まで手を抜いていて、本気を出そうとしているのだろう事は、雰囲気で感じ取れた。
嫌な予感がした。これまでもしていたけれど、比にならないほどに。絶望的な悪寒が、メイヴェルを襲う。
どうしよう、と思っても、どうしようもない。自分には何もできない。ヨシュアの戦いを見守り、邪魔しないよう勝利を祈るくらいがせいぜいだ。判っていても、何もできない事がもどかしく、悔しい――
唐突に、キン、と、はじける音がした。
メイヴェルは考え込む事でうなだれかけていた頭を上げる。
闇の眷族が腕を上げていた。だがそれは、今までのように炎を呼ぼうとしての事ではなく、鬱陶しくまとわりついてくる小虫を払う仕草のように見えた。
対象は小虫ではないのだろうが、実際に払ったのかもしれない。そうメイヴェルが思ったのは、闇の眷族のやや後方に、一本の矢が落ちていたからだった。なぜそんなものが飛んできたのかは、さっぱり理解できなかったけれど。
【風の王よ!】
声が、聞こえた。ヨシュアのものでも、闇の眷族のものでも、もちろん自身のものではない、声。
聞き覚えはない声だけれど、懐かしいような、暖かいような、優しい声だった。
【アーロの名において、烈風よ唸れ、太陽の代行者を覆う厚き雲を吹き飛ばせ!】
空が、光輝いた。一瞬遅れて、風が吹きはじめる。強烈な、闇の眷族が導いたものと同程度に強い風。
けれど地上のそれはまだ可愛いものなのだろう。見上げる夜空に蠢く雲は、もっと強烈な風に煽られ、急激に形を変えようとしていた。
『なっ――』
空模様の変化を感じ取った闇の眷族は、羽根を大きく広げ、ヨシュアやメイヴェルに見向きもせず、一目散に飛び去って行く。ヨシュアが詠唱し、一帯に光の雨を降らせて妨害を試みたが、隙間を華麗に泳ぐ事で表皮の数カ所を抉る程度の被害に押さえた闇の眷族は、あっと言う間に去ってしまった。
メイヴェルはまず唖然としたが、まもなく姿を見せた細い月の輝きを見て、安堵した。あの輝きがある限り、もう闇の眷族は現れない。
ほっと息を吐き出すと、足から力が抜けてしまったので、メイヴェルはその場にへたりこんだ。
「アーロのくせに、おいしいところ持っていくじゃないか!」
ヨシュアが満面の笑みを空に向け、叫ぶ。
ああ、ヨシュアの知り合いだったのだ。弓を打ったのも、風を利用して闇の眷族を追い払ってくれたのも。助かった。お礼を言わなければ。もちろん、ヨシュアにもだ。
メイヴェルはもう一度立ち上がろうとする。しかしすぐ、その気力を失った。
ふわりと、人が空から降りてきて、目の前で軽い足音が立つ。雲を払うほどの風が呼べる人だから、その力で空を飛んでいたのだろう。さっき光が溢れたのも空中だったし――そんな事を考えながら顔を上げたメイヴェルは、眩しさに目を細めた。
短い髪が、王の光と月の光に照らされて、優しく輝いている。金色だ。けれどそれは、光を浴びて金に見えるだけで、本当は違うのだと、メイヴェルは知っていた。
そう、気付いたわけではなく、知っていたのだ。
「――コーラル……おにいちゃん」
Copyright(C) 2012 Nao Katsuragi.